蟹座と山羊座という軸を想う|アバター ウェイ・オブ・ウォーター
シリーズ2作目、アバター ウェイ・オブ・ウォーター。
スヌーズ付きタイマーみたいに、繰り返し「よかったです!ぜひ!」とオススメを受けて、やっと観てきたわけなんですが。
すみずみまで、ものすんごい映像で、
はい、どっぷりと世界観を堪能させてもらいましたー!
…だけでは、もちろん済まない。
クライマックス、主人公のジェイク・サリー曰く、
『家族、それはわれわれ最大の強みであり、最大の弱点である』。
ジェイク・サリーは実子・養子合わせて5人の子供の父親であり、一族の長であり、元軍人で、戦士。騎獣にまたがり、戦化粧をして、近代的な兵器も、原始的な武器も巧みに操る。
かたやわたしの日常といえば、彼の地のような空飛ぶうつくしい珍獣もいなければ、冒険もいかつい爆撃機もない。向こうからしたら地味な異世界に暮らすわたしであるのだけど、前述のサリーのモノローグには、
「うん、せやな…。せやせや。ほんまほんま」
と、どこか内のほうで通ずるところあり、ウームと相槌を打った。
以下、観ていない人にはなにいってるのだか?だろうし、観た人にとっても「そーお?」かもしれないことを好き放題に。
お話の筋をいくつか引用しているので、できるだけ前情報なしにアバター2を観たいんだよねという人は、映画鑑賞後にこちらの記事を読んでいただくことをお勧めしておきます(お待ちしてます!)。
蟹・山羊軸の引っ張り合いだと思ったところ
西洋占星術の学徒ことわたし、ヒトハには、
ウェイ・オブ・ウォーターは、蟹座(家族、一族)と山羊座(社会的役割の達成)の相克・葛藤・成長の物語に見えてきてしかたないのだった。
どこがカニでヤギなのか、
お伝えしたい内容を、汲みとっていただけるとよいのですが…
少し占星術的補足をすると、蟹座と山羊座はホロスコープのうえで、ちょうど180度の反対側=オポジションに位置する。この、オポジションにあたるサイン同士は、それぞれ性質のうえでも拮抗するとされている。
共感を持てるもの同士でつながる蟹座のやわらかさや、ときにジメジメとしてしまうような自然体に留まること山羊座は許さないし、為すことのためになら自身の好みや情動、幼心がイヤイヤを言おうが抑え込んで、目当ての社会や集団に同化しようとする。それでこそ、よりおおきな意味で一族にとっての成果がもたらされるのだから、山羊座もたいへんなのである。
◇
敵から一族と土地を守るために、棲み、慣れ親しんだ森を泣く泣く離れ、海へと亡命せざるを得ない状況に追い込まれたのが、物語の柱であるジェイク・サリー一家。
海の民に辛くも受け入れられるが緊張状態、肩身の狭い立場ゆえ、やんちゃ盛りの子どもたちには厄介を起こさないようにと、再三の注意や我慢を強いる。
けれども、子どもたちは繰り返し繰り返し問題行動を起こす。そのたびにサリーは海の長に頭を下げ謝罪し、問題を起こした子どもたちを保護しながらも厳しく叱りつけ、罰する。
ここに、
子どもたち=蟹座、サリー=山羊座、の構図が観られたのがひとつ。
ほかにもサリーという一人の人物の中の二面性として、つまり、養育する者=蟹座、ルールする者(支配し規律する)=山羊座の対の構図も観られるし、
サリーの妻ネイティリには、養育する者であり、夫や子供のためになら鬼神にもなる=相反するようだけどどちらも蟹座の資質、
悲しみを押し込めて戦闘に参加したりする=山羊座の資質、、、
といった感じで、それぞれの要素が入れ子になったり万華鏡みたいになったりして、本筋とパラレルに、別の視点のストーリーが編まれてゆく。
◇
やきもきすることの連続なのだが、家族の物語も作品全体の物語も牽引し、展開させてゆくのは、それら、子どもたちの問題行動や、ひとりひとりの中にあるアンビバレントなあり方だったりもする。
首尾良く進めようとするところに足手まといになる存在が介入し、それを捨て置くわけにはいかない。ここに蟹-山羊の引っ張り合いを感じるのだ。
そのあり方を、サリーたちの物語から、わたしたちの身近な日常へと移したら、出社、あるいは気合いの入った会議開始と同時に「子どもが急に熱出した(と保育園から連絡が入る)」だとか、あるいはいっしょに暮らす犬や猫、うさぎ、亀、鳥が…など、家族にまつわるのっぴきならないアクシデントになるだろうか。
他者でなくとも、自分の内なる子どもが黙っておれなくなり、あげく出社拒否になる、なども(二十代後半の自分がそうだった)。
サリーの宿敵、クオリッチ大佐のような、やわらかいところの一切をどこかに忘れてきたような人物ですら、実子である少年、スパイダー(わけあってサリーの養子)には、いつものキレが鈍るし言動も変わる。
家族の強い呼び合いと、社会での振る舞いとの葛藤、そして戦、変化を余儀なくされることがとにかくあれこれとたくさん描かれている。
カニを黙らせてヤギを達成する、という直線的なものではない。そもそもヤギを達成したければ、カニに一度メタメタにされ、それを超えてこそ真のヤギになれる、(逆もまた真なり、カニはヤギという外界を経験することで、ひとりよがりだけではない自信を持つことができる)という考え方があって、それらは実際にみられることだと思っているし、映画などお話のなかにも浸透する本質かと思う。
話がカニヤギから少し逸れるようだけど、
それにしても、ああもドンパチ激しい戦闘シーンのボリュームは過剰ではないのだろうか、と一度ならずよぎった。
とくに無抵抗の生き物が痛めつけられるところは、観ていてほんとうに「やめてくれーー!」と思ったし、人物同士(アバター同士?)の殺陣シーンもやめてほしいし、刺激が強すぎて、ところどころ目をつぶってやりすごした。
のだけれど、、、
さんざん主人公側を手こずらせ、痛めつけることになったある人物が、終盤で報復を受けるところではカタルシスを感じる自分もいて、それらのあいだで微かにガッカリするのは何か。
どこかで拾ったつっかい棒かもしれないけれど、あのような忌々しさと攻撃性からは意識して離れる努力はできるけれど、自分の内にもあることを忘れるでないぞ、の戒めということで、今はいったん引き出しにしまっておく。
それに映画とはいえ、えげつない戦を目の当たりにさせられるのって、あのようにわかりやすい現れではなくとも、似たような緊迫感や不安感は今わたしのいる世界の日常にもあるのだよ、と囁かれたら、あながち遠からずかもしれない、、、とも思えるのだった。
うつくしい世界だからこそ、壊されると悲しいし、壊す相手が憎い。
そういうギャップは、感情や物語の生まれる場所でもあるし、自分のほんとの願いや嘘に気づく鏡でもあると思う。
◇
シリーズはこのあと5まで続くそうだが、どのように決着・結論づけられるのか。カニとかヤギとかでないことはたしかだけど、2作目、わたしにとっての見どころは、かようにも蟹・山羊軸なのだった。
ここでわたしが好き放題述べているのは、ある“はたらき”としての蟹座であり山羊座で、その生まれのひとたちすべてが好戦的だとか、子ども心を閉じ込めた大人だとか、ジメジメしているとかに、いつだってあてはまるといってるわけではない。野心家な蟹座さんも引っ込み思案な山羊座さんもいらっしゃるでしょう?
そもそも、ホロスコープは牡羊座から魚座まで12サイン1セット。現れの強弱、活性・不活性はそれぞれだけれど、因子としてすべてのサインをどなたさまも潜在的に持つ。何かしらの現れや感じ取りは、個々にあるだろうと思う。
余談だけど、
タロットで蟹座のカードといえば戦車なんだよなぁ。
山羊座は悪魔。なんかイメージにぴったり来ないけど、、、
ほか、占星術から離れて、神話的だなーと思ったところもある。
それはつぎの投稿で。
星の一葉 ⁂ ほしのひとは