自分の中に生まれた予感に、だれかが発する言葉がかけられ示唆が強くなることはけっこうある。罔象女神がお祀りされているところとしてフラグ立ててた久留米の水天宮。ある人から天之御中主が御祭神と聞いて二重マーカーになり、さらに別方向から三色目が重なり、今日ようやくお詣り。線が交わる。
この閉じた扇みたいな形の葉っぱの木、なんていうんだったかな…◯◯ノキみたいな名前ではなかったか。そこに絡まる実を付けたツル性の君も気になっているよ。サンキライ?総合図書館へと歩く道。あらたな楽しみを見つけた記念日。
(つづき)好きでも、好きすぎたらもう降参降参ー!ってなって、いいところ見せようなんておもわなかったりもするけど、1ミリも気を引けないとなったら危機を感じるなら本気ちゃうの。逆に興味持たれたくなくて透明になることもある。興味の火花、散らす散らさないは生きるに必要なナニカっぽい。
少しでも、「へー、やるやん」っておもってもらいたい、おもわせたいって気持ちが湧くとき、興味のベクトルは自分に向いてるんだろうか、相手に向いてるんだろうか、それとも両向きだろうか。少なからず相手のこと好きなのでは。「やってみ?」という自分への愛もあるのでは。興味の火花散るとき。