見出し画像

「言語化」はだいじだけど吹き飛ぶ瞬間もあり|「ノート術」は自分に向けるマイク

身近な家族や友人知人のあいだでは、ほとんど話題になることはありませんが、SNSを眺めていると、

「◯◯を言語化したい」「言語化できたら##だ」

といった書き込みをちょくちょく見かけるようになりました。目につくのは、わたしが日頃から言葉や文章を「書くこと」に意識を向けているからかもしれません。

「言語化」という言葉が駆け巡りはじめたのって、わりと最近ではありませんか? 昭和平成の時代には、あまりなかった言い方だとおもいます。まだよく素性がワカナライ感じがして、わたしのなかの慎重さは「不用意に扱うでないぞ」とじゃっかん警戒していました。

でも、「~したい」「~ならいいのに」というニュアンスはわからなくもありません。こういうときは、解体してみると、仲良しになれる部分が見つかるとおもうのです。

というわけで、「今こう見えてる」という範囲でほぐしてみます。

「言語化」に期待されていること

「言語化」には、ただ読み書き全般達者になりたい、という気持ちだけでなく、さらなる効果や、ある状態に対する期待や願いも集まっていると感じています。似たようなのでは、「見える化」というのもそうかもしれません。

「言語化」とは、
たくさんの確定&不確定要素が入り乱れていたり、暗黙の了解になっていたり、無意識にしてしまっていることを白日のもとにさらして、わかりやすく分類して機能別に並べ替えて、「あー、スッキリ!! これでみんな、動きやすくなるね!!」という効果と同意が確認できたらゴールですね、までを含むのだろうな、と拝察しております。

外向きにはたらく「言語化」

「言語化」の持つ一つの役割は、まわりを取り巻くヒトやモノゴトにはたらきかけることではないでしょうか。よく機能するパーツや仕組みを手に入れる高揚感、外に向かってゆく「言語化」。

雑多な動きをルール化したい、マニュアル化したいなど、整然とさせたい欲求を満たすもの、あるいは、見聞きしたものをレポートしたい、感動を伝えたい、というのは…どういう欲求になるのか? わかりませんが、それもあるとお見受けします。またはチームワークで成果をあげようとするシーンや、方向性も趣向もバラバラな人の集まり(エネルギー)を、ある一方向に束ねようとするシーンでも、外向きの言語化は求められているとおもいます。

内向きの「言語化」には「ノート術」

一方で、自分のなかのモヤモヤしたもの、埋もれてしまってるものを見つけて確かめて、気持ちを落ち着けたい、などのシーンで求められる「言語化」もあるかな、とみています。

この場合の「言語化」したい欲求は、独り言、場合によっては「みてみて!きいてきいて!」と発信や発表までがセットになるSNSでのつぶやき、ブログ、小説、エッセイ、詩歌、舞台のシナリオなどなど、言葉をつかった表現の原初の火花ではないかとおもっています。

外に発することはあるけど、「まわりにはたらきかける外向きの言語化」よりもずっと手前にあるような気がします。はじめのはじめ、誰かに聞かせることを前提としない、自分が自分に聞かせる言葉、「ここにいたの!」という迷子を発見するかのような安心感、どちらかというと、内向きの「言語化」。

この、「まずは内向きの言語化をしてみようじゃないか」という目的に、これまた昨今、一部の界隈でアツイ、いわゆる“ノート術”は向いているのではないかな、と今更ながら思い至りました。「だからみんな、ノートノートゆってるのか~!」と。あくまでも、わたしの場合は、ですが。

というわけで、つぎの段落では「ノート術」のことをご紹介。

あまたある「ノート術」、これまでの取り入れ状況

いつからでしょうか、ここ数年くらいでよく見聞きするようになったのが、いろんな発信者さんが口を揃えてオススメされている「ノート術」(ノート書きましょう!というお誘い)なのです。

なにかの科目を習得するためのノート術、というのもあるみたいですが(こないだ図書館で見かけたのは、ある資格取得のためのノート術でした)、今回、ここで話題にしているノート術は、そこまで目的がハッキリしたものではありません。

世代をさかのぼれば、ジャーナリング(日記をつける)が源流なのではないかな、という類のもの。「ノート術」って、ラベリングが今風に刷新されてるけれど、中身は梅干しや味噌みたいに、昔ながらの暮らしの知恵なのでしょうね。

ノート術の提唱者はそれぞれに独自の持論を展開されていますが、「ノートに書く」という行為は、どの発信者さんとも共通しています。

わたしの知り得たノート術で、わりと最近だと、

◯Azusa.Kさんの「なんでもノート」
おもいついたことを、ポジティブだろうがネガティブだろうが、なんでも書く! これからやりたいこと、計画、ほしいものリスト、なに書いてもOK! だから、「なんでもノート」。


◯ケシーさんの「感謝ノート」
今日感謝できることを、一日10個書く。


◯ジュリア・キャメロンさんの「モーニング・ページ」
朝起きたてのときに、A3のノート3ページに渡って、思いついたことをなんでも書く。支離滅裂だろうが、なんでも書く。

(この「モーニング・ページ」のことは、岡田斗司夫さんが動画内で、ご自身の「スマートノート」とは別に、「あれはすごくいいんですよ、脳の排水!」と紹介されていたようにおもいます)

…こうして並べてみてもおもうに、わたし、気が多いんですねぇー

幼児がおもちゃを取っ換え引っ換えしてるみたいでおはずかしいですが、気になったらとりあえず試してみる派です。

それぞれやってみて、「感謝ノート」だけは休み休み、日々の棚卸し的に約10ヶ月ほど続いています。ほかはやろうという思いはあるものの、何度かトライしたのち、定着できていません。まあ、今はあれこれ広げず、「感謝ノート」を続けてみよう、とおもっているところです。

ずっと以前に、「過去に感じた感情を書き出すワーク」みたいなものもやってみたことがあります。青天の霹靂のようなわかりやすい効果はないにしても、自分に対して隠し事をなくす、という意味ではよかったのかもしれません。

自分だけしか見ないノートに書く、ということは、人知れず(とはいえ読んでくださるありがたい方もおられる)こうしてnoteに書くことと、友人に宛てて手紙をしたためることとは、わたしのなかでは同一線上であったりもします。

「書くこと」は、自分とコミュニケーションを取ること

「ノート術」というと、なにやらテクニカルなラッピング感がありますが、ごく素朴に戻してみると、つまりは「書くこと」。その行為のなかに、知恵がたくさん詰まっているのでしょう。

それぞれの発信者さんの謳う、ノートを書くことの極意は、それぞれのブログなり動画なりで語られているので、気になるかたはぜひそちらもご参照いただくとして。

とにかく、「アタマのなかで思ってるだけだと、ちっとも片付かないけれど、いちど外に出して並べてみたら、かなり整理が進むよ!(少し雑に要約)」という原理なのですが、たしかにそうかもナ、とこれまでに実感しています。

「書くこと」には、

1.自分を客観視できる
2.自分とのコミュニケーションを密に取れる

という効能が含まれていて、この2つめが、とくに自分にとってだいじなのだなとおもっています。

なぜなら、客観視というのは、「書くこと」を用いなくても、ヒトの目がある場所では自然とやることになるからです。

最近、あらためてマジマジと輪郭を捉え直してみたのですが、なんらかの役割でヒトと会ったり、プライベートな時間であっても、なにかやりとりしているときには、これまでに育て、鍛えもしてきたペルソナ(社会性を持つ朗らかな自分)が出てきて、それらしく振る舞おうとするものです。ヒトの目という牽制が、自分を際立たせてくれる、よいプレッシャーになっているのだとおもいます。

けれども、ひとりでいるとき。
自分とのコミュニケーションは、なんだか粗雑になるというか、自分とのあいだだけ、特殊なコミュ障(コミュニケーション下手)になってるときがあるのです。

こまごまとでもやるべきことをやってるときは、目的の比重が外にあるので、ヒトの目という牽制をもらってる状態と、あまり変わらない気がします。そうやって外に気を向けている分、自分とのコミュニケーションへの比重は目減りしています。別にわるいことではないのに、そこでなにか「足りなさ」を感じはじめる自分がいるのですね。まるでグズる幼児みたいです。

これはおそらく、なのですが、空や海、山や川など自然の風景に身を置くことで、あるいは気心知れた、ある程度わかり合えている家族や友人たちとともに過ごすことで、いろいろなササクレや凸凹がどこかに消えているうちは、それでよいのです。

思いの丈を聞いてもらったり、理解はされなくても「そっかー、あなたはそうなんだね」と受け止めてもらえたりすると、とても心丈夫で、霧が晴れて、つっかえが取れるように感じられることもあります。

けれども、なんらかの事情やプロセスで、自然のエッセンスをキャッチできないとき、気持ちを受け止めてもらう機会が取りにくいとき、「なにもかも足りていて、過剰でもないです」、という状態から遠ざかることもあります。

そんなときは、自分とふたりきりになる必要があるようです。それを実現するのに、ノート術、すなわち「書くこと」はとてもよい方法のひとつです。

「書くこと」は、「ねえねえ、調子はどう?」と自分にお伺いを立てること。これができるなら、手段はなんでもいいとおもう。研ぎ澄ます感じがあれば。

食べる、ストレッチする、好きな香りを嗅ぐ、目的なく歩く、ボーーっとする、予定になかったけど、やりたくなったことをやってみる、なども、自分とふたりきりになる方法だとおもいます。純粋な読書もそうで、わたしはちゃんとできた試しがないですが、瞑想もたぶんそう。

「書くこと」は、そのうちのひとつ。
書いてるうちに、「へー、そんなことおもってたんだ」ということが出てくると、自分とのコミュニケーションはなかなかうまいこといってるんだとおもいます。この自分とのやりとりがだいじらしいな、とおもったので、気持ちが冷めないうちに、こうして長々と文章を書いています。

ヒトとのあいだで、おもうように振る舞えなかったとか、イレギュラーなことにあって、一時的にハラハラすることがあったときとかは、その場はどうにかやり過ごすにしても、なにかを持ち帰ることになります。そんなときにも、「書くこと」で、いったん後回しにした自分を救済することができると感じています。

なんであれ、グズる自分をそのまま放置しているとどうなるのか? というと、思い当たるのは言葉をしゃべれる前の幼児。機嫌を損ねると癇癪を起こしたり、ひどいと噛みついたりすることがあります。つまりはまあ、そういうことです。だから、「言語化」してちゃんと思いを把握する、伝える、ができていると、まわりも平和だし、本人もスッキリしていられるのでしょう。

「言語化」が吹き飛ぶ瞬間と、一人一色

外向きにしても内向きにしても、「言語化」をするときには、あるていどの分量のインプット(対象への取材、観察)がマストだとおもいます。だからこそ、「書くこと」は、世界を味わうことでもあるし、自分を味わうことでもあるとおもいます。

けれども、「書く」だけにとどまりたいとはおもいません。犬や猫をひとなでしてみたとき、通りすがりの子どもにじっと見つめられ、手を振られたとき、枯れ枝から緑の芽が出てきたとき…「言語化」なんて吹き飛ぶ瞬間もまた、世界を味わわせてくれますから。

まだ「言語化」で分けられていないこと、曰く言い難いことの深い色合いには、「言葉を操れる巧みさ」とはまたちがった、心の動きがあり、惹きつけられますよね。

「あの色合い…」と、憧れることはたくさんあります。でも、自分の色はひとつだけで、それが出せたときいちばん喜ぶのは自分で、つながりたかったところとつながってゆけるのも、その色みたいです。



こうして、まだ未整理なままのおもいや考えをないまぜにして、なんの検閲もはいっていない文章をまとめてみるとき。

書こう書こう、、、とおもっていた友人たちへの手紙をやっと書き終えたとき。

やっぱり、ものすごくアタマと気持ちの整理になります。

夏のあいだに送りたい、とおもっていた手紙は、先日やっと投函できました。

何層にも分かれて、それぞれのパートを担いながら、ときどきふれあいながら、わたしたちは生きていますよね。

星の一葉 ⁂ ほしのひとは

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?