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教壇に立ち続ける 106 社会保障と学校【note限定記事】

まだ桃ちゃんの12月21日は終わっていない。終わっていないぞ。どうも星野です。今日はちょっと趣向を変えて、福祉の話をしようと思います。まあ、事の発端になった出来事もあとで語るので、しばしお付き合いください。更新時間は不定期ですが期間限定で1日1本プロジェクト進行中。この記事を読んで、参考になったなーとか、いいなと思って頂けたらサポートをお願いします。minneとFantiaはこちら。全然更新してなくて申し訳ないです……家事労働をしながらゲームも走りつつ執筆するのは苦しい……

事の発端と社会の課題

本日の私は冬至を迎え、極限まで弱りきっていました。だから引きこもって家事をこなし、ゆっくりと紅茶を飲んでいたのですが、その日も家族から心無い言葉を投げつけられ(ここ最近は弟が反抗的です。両親とは若干和解しました)、学校から帰宅した弟から「うっせえな黙れ死ねクソブス」という罵詈雑言を時速200㎞のストレートで投げつけられました。そうか、きみはそういうやつだったんだな。そう思えばよかったのに、脳みその配線がおかしくなっていた私は「自分が悪いのだ」と勘違いしてしくしく泣いていました。世の中の親御さんはすごいですよね、反抗期の男子高校生に「うるせえババア」と言われても、毎日お弁当を作って持たせて学校へ送り出すのだから……私ならそのまま無理心中を図りかねないです。そんな反抗期真っ盛りの息子に大きくなってから手のひらをかえすように親孝行とかされても正直心の傷は治らないし、私ならただただ困惑します。大人の言うことを何でもハイハイと聞いて、何も考えずに成長していくよりも、反抗したほうが子どもにとっては良いことだとは思います。それでも言っていいことと悪いこと、やっていいことと悪いことの分別くらい高校生になったらつけなさい、と思ってしまいます。それほど子どもが好きではない教師、というのも珍しいのかもしれませんが、これが私の率直な思いです。子どもを守らなくてはならないのは、彼らが将来希望に満ちた人生を歩んでいけるように、そして社会を支えていってくれたらうれしいなあという願いというか祈りのようなものがあるからです。前述したような家族との不和や、幼少期からの虐待経験が重なって、私は子どもを素直に好きだとは言えないのです。

こういう時に真っ先に思うのは、「社会の中に逃げ場がたくさんあればいいのになあ」ということです。私などはもう社会人ですから、実家を出てどこへなりとも行ってしまえばよいのです(今それができないのは単純にお金がないからです。桃ちゃんが自殺する前に皆さんお布施をお願いします)。しかしもし、被害に遭っているのが小さな子どもだとしたら、大人はどうしてあげたらよいのでしょうか。特に教師という仕事柄、子どもに接する機会が多いので「虐待が疑われたら通告する義務」を負っています。そういう場合、児童相談所や警察以外に頼れるところが無いと、いよいよ子どもは追い詰められていくと思います。夏休み明けに自殺する児童生徒が増える中、「しんどかったら図書館へおいで」と告知した市立図書館のおはなしもありましたが、そういうところがもっと公共のサービスとして子どもたちをサポートしてくれたらいいのにな、と考えたりもします。外国では図書館というのは「福祉の施設」でもあるので、生活困窮者に就職活動用のビジネススーツをレンタルする制度もあるくらい、社会の網の目からこぼれ落ちていきそうな人たちのための公共機関として活躍しています。そういうの、日本でもやったらいいのにな。いい歳した私でさえ、家ではボロ雑巾のように扱われているので、家を出たくても出られないし、そういうのも社会福祉制度でサポートしてくれたら助かるのに。以前あまりにも虐待がひどすぎて(精神的・経済的DVというやつです)、家を出るための資金を得るべく生活保護の相談に行ったら、家を持っていないと交付できないと言われて受けさせてもらえませんでした。いや、家から出るための資本が欲しいって言っているでしょうが。大丈夫か。生活保護に関しては、同伴してなんとか交付してもらえるように手伝ってくれる団体もいくつかあるそうですが、子どもの場合は本当に逃げ場が無さすぎてかわいそうになってきます。生活保護を仮に受けられたとしても、ひとりでは暮らしていけませんし、児童養護施設に入るとしても18歳で独り立ちです。その間にどうやってサバイブしていく能力を付けるか、というのもありますが、どうやったら「18歳の身ひとつで稼いでいける社会を作るか」も大事になると思うのです。
……という具合で、虐待等の被害に遭っている子どもを守り、大人のケアをしてあげるための何か新しい仕組みを作っていかないとまずいと考える1日が今日でした。失っても喪っても守りたいものがある、とは今日聴いた話題の歌の歌詞ですが、そういう苦しい中に幸せを見つけるのがスタンダードになっているのがおかしいな、と感じるのです。「普通の幸せを普通に手に入れられる」社会って、どうやったら実現できるのでしょう。

解決策をちょっとだけ考えた

学校や病院は子どもの最初の相談窓口になる場所です。いじめもそうですが、「見つけたらボーナス10%アップ」くらいはしてもいいんじゃないかと思います。お金で釣るのは倫理的にアウトかもしれませんが。それでも「見つける」ことが大事だと思うので、教師や小児科医はまず子どもから相談してもらえたことをちゃんと受け止める必要があります。そのあと、児童相談所や警察など、外部に繋いでいかなければならないのですが、この「バリエーションの少なさ」が問題だと思っているのです。子どもを受け入れる場所が少ないから、児相もパンク状態だし、警察も取り合ってくれない、という悲劇が起きるのだと考えたわけです。ただそうなってくると、NPO法人に子どもの保護や交渉を任せるのがいちばん手軽で身動きも取りやすそうなのですが、公的なものにならないとサポート体制の不備や悪用などが考えられます。
そこで私が推したいのは、公共図書館と学校です。そこにまずお金と人員を回せ。話はそれからだ。
公共図書館は、前述の通り海外では社会福祉の施設でもあるので、そういうサービスを日本の公共図書館にも持たせられたら良いのではないだろうか、老若男女が集う図書館でなら何か地域のコミュニティで守れる家庭や命があるのではないか、という考えです。これには専門のスタッフを常駐させておく必要があるので、もちろん人員確保および研修、そして徹底した分業体制が求められます。
同じように、学校。寮や寄宿舎を持っている学校もあるかと思うのですが、そういうところの一部を使ったりできないのかな、と思ったり。ただ寮の場合は、そこに入っている生徒がだいたい部活などの関係で遠方から来ているという事情があるので、いじめの発生につながらないか少々心配な部分はあります。学校で面倒が見られるメリットとしては、教育をしっかり受けさせられるから進学も不可能ではないし、寮監さんに面倒を見てもらえるし、何より共同生活なのでコミュニケーションを取るなかで友達ができる可能性も高まるということが挙げられます。
何にせよ、子どもを大事にしない国に未来は無いので、少子化がどうのこうのと言っている前に、子どもに関わるすべての業種にお金を回してほしい、子どもの教育や社会保障にお金を回してほしい、と思ったのでした。そんなところでおはなしはおしまいです、それでは、また。

今後の執筆の糧を頂戴できれば幸いです。お気持ちだけで結構です。