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ニセモノの私が死んだ日



◉始まりはいつもの親子喧嘩だった

娘に「お前の人生全部失敗だろうが!」と叫ばれた。
全然思ってもないこと言われて最初はキョトンとした。
正直何を言っているのか理解が追いつかなかった。

「え?私今すごい幸せだよ?」と、咄嗟に娘に返した。

でも後からジワジワと
私の事を勝手に決められる、尊重されてないという怒りが込み上げてきた。
それは昔から私の中にある怒りだった。

そして娘と話し合った。

その日は娘が副キャプテンになって1番最初の試合の日。
にも関わらず娘はユニフォームを忘れた。

他の保護者から連絡を受け
試合までにユニフォームを届けるのに色んな予定を変えざるを得なかった。
下の子たちの予定も余儀なく変更された。

でも私は初めての副キャプテンでの試合で良いプレイをして欲しい
そんな想いでユニフォームを届けた。

が、彼女に会い1番最初に出た言葉は
「ありがとう」でも「ごめんね」でもない
きつい、だるい、熱中症になりそうという言葉だった。

私は思わず体育館中に届くような声で叫んだ。
「ふざけるな。」と。
多分、顧問の先生にも聞こえただろうと思う。


この経緯を経て、娘は自分が失敗したから怒られていると思っていた。
「ママだっていっぱい間違ってきてるじゃん、だったら全部失敗じゃん」
そんなことを言う娘に悲しくなった。

「そうじゃない。<間違い=失敗>じゃない。
 あくまで間違いは成功へのプロセス。
 間違ったってことは、ここが直すところだよってこと。
 テストでもそうでしょ?」

と言っても意味がわからない。と言われる始末。
おそらく思春期あるある『反抗期』と言うやつだろう。

結局何を言っても通じないので気づけば言い合いになっていた。
こんなに怒って怒りをぶつけたのは
初めてかもしれないってくらい本気の怒りが心の底から湧いていた。

でもよく考えたら元旦那とか親とかに対しても内側ではこう言う怒りを覚えることはしょっちゅうあって。だけど全部押さえ込んでたなって思い出した。

自分でもこんなに怒れるんだって結構ビックリした。
元旦那とか親の時とかもいつもなら次の日になったらなかった事にして、いつも通りに接したりしてたんだけど、今回それをするのを辞めた。

娘もそう思っていたのか次の日の朝、何事もなかったかのようにちゃっかりおねだりをしてきた。
でも私はそれをキッパリ断った。

私はうやむやにされのが嫌だと思った。
いつもそう思ってモヤついていたが、我慢してなかったことにしていた。

その私の嫌だと感じている気持ちを今回ばかりは尊重したいと思ったから、なかった事にするの辞めた。

その日から娘はうちの実家に帰ることになっていたので
怒りは継続したままそこで一旦離れ離れになった。

そして数日後には娘の誕生日。
私も実家に帰りお祝いすることになっている。

でもこの状態のままだったら誕生日のお祝いはしたくないし、心からおめでとうと言えないと思った。
おめでとうなんて思えないのにお祝いをするなんて、自分にも嘘をつくようなことは絶対にしたくない。だからその時はお祝いはしない。
と今までの私だったら絶対にしない選択肢さえ出てきていた。

この選択肢は一見周りからみたら自己中心的で身勝手なネガティブな選択肢かも知れない。
だけど、私にとってはポジティブな選択肢で、自分に嘘ついてまで祝いたくない!という自分自身を尊重できる選択肢だった。

今まではその自分自身を尊重できるという選択肢さえなかったのだ。


◉娘の誕生日当日、今までの私は死んだ

娘の誕生日当日の昼、母からメッセージが送られてきた。
「娘も反省して謝りたいみたいだからおいで。」と。

母には伝えていた。
私は今まで怒ってこなかったから、私が本当に怒っているということが伝わって、それが分かるまでは私は実家に帰らない。と。


その「おいで」というメッセージを受けて、私は実家に帰った。

実家に入ると、不貞腐れた娘がいた。
私の存在を無視し、明らかに話す気もなく、話しかけても喋らない、顔も背けている。

全く謝りたいなんて思ってないということが一瞬で分かった。


「あ。また尊重されなかった。」と思った。
「そうか。この家ではいつもそうだった。」とも思った。

それはただの母のお節介だった。
誕生日くらいみんなでお祝いした方がいいでしょ、という母の計らいだった。
でもそれは私の意図も娘の意図も無視されている。

私は今回怒り切ると決めてたので
謝る気のない娘を許す気もなく、そこでも怒りを継続させた。

すると母や祖母、妹など周りにいた家族が私の怒りを止め出した。
そして私を悪者にする構図になった。
母親なんだからとか、子なんだからとかいろんな理由をつけて。

それは幼い頃から何度となく感じてきた疎外感だった。
本当に久しぶりにその<いるのにいない>という感覚を思い出した。

私には自分の意図があったとしてもそれを出すことはみんなにとって面倒なことで、臭いものに蓋をするかのように扱われてきた。

その感じに耐えられなくなり、私は1人実家から逃げた。

その日は娘の誕生日、
翌日は実家の祖父の米寿のお祝いも予定されていたが
全部ほったらかして。


その後に残った家族たちが話して
そこでまた怒って泣いてがたくさん起きたっぽい。
妹からの電話で知らされた。

で、結局
私VS家族全員
という構図になった。

妹との会話の最後に放たれた言葉は
「めんどくさ。」だった。

この言葉は私の中にあった小さい頃からの問いを決定づけた。


私は号泣しながら車を運転する最中、思い出した。

あ。私この居場所のない感じをいつも恐れてたんだ。
ここまでの人生であまり怒らなかったのは
私が家族とは違う生き物だと知りたくなかっただけだったんだって。

そして今回やっとハッキリした。
私は家族とは違う生き物だった。

結局家族に対しても<尊重されない>という怒りをずっと持っていたんだ。
私はこれまで家族の普通に合わせて生きてきた。
家族の普通に合わせることで居場所を確保しながら生きてきた。

でも娘の誕生日のこの日、
本当の自分を隠し通してきた今までの私は死んだ。


◉めんどくさい奴になるのが怖かった

高校2年生の頃、父方の祖父が亡くなった。
誰もが認める破天荒で天才肌の変わり者の祖父。どれくらい変わっているかというと車の廃材をかき集めて車を組み立てて作っちゃうような人だった。
そんな祖父は厳しい人だったのでちょっぴり怖かったが、私は面白くて大好きだった。

でもそんな祖父はその天才さ故にこだわりも強く、周りに全然理解されていなかった。きっと理解していたのであろう祖母は私が生まれる前に亡くなっている。
周りの家族からは「めんどくさい奴」とレッテルを貼られていた。

私はそんな風に周りの祖父の話を聞くたび苦しかった。
私は子供心に周りの大人がなぜこんなにも祖父をめんどくさい奴にするのか分からなかったし、それを見て怖いとも思っていた。

私はその居場所のなさと孤独感が痛いほど分かっていたんだと思う。

そんな祖父のお葬式で
あまり知らない親戚のおばちゃん4〜5人に取り囲まれた。

「みかちゃんって、あなたね!お爺ちゃんは生前ずっとあなたの事を自慢の孫だって言ってたのよ。」といきなり言われて目を丸くした。
4〜5人が口を揃えて言うのだから間違いはないのだと悟った。

でも思い当たる節が全くなかった。
私は祖父からすると外孫だし、内孫の男の子2人に比べて優秀なわけでもなく、妹みたいにスポーツ万能でもない。

祖父は一体私の何を見ていたのか。全く見当もつかなかった。
その言葉は私の中で長らく解けない謎となった。


でも今回妹に「めんどくさ」と言い放たれたことでようやく答えが分かった気がする。

<祖父は私と同じ生き物だった>

でももうその祖父は今に生きていない。
だから気づいたとて居場所ができた訳でもない。

でもここにきて分かったのは、
同じ生き物として見てくれている人はいたという確信。
それだけで私は人生で初めて自分のめんどくささに少しだけ愛しいと思うことができた。


◉家族に期待し、依存していたのは私だった

私は昔から個人への怒りはあまりなく、社会に対して怒りを感じていた。

人々が尊重されない、不自由で縛られた社会構造、そしてそれを当たり前とする空気感にしてしまった社会全体について怒りを感じることが多かった。

でも今回のことで分かってしまった。
家族は社会の縮図だということを。
だから社会に怒っている私は、家族にもずっと怒っていたみたいだ。

ずっと家族の中に居場所がなかった。
家族に合わせないと居場所がなかった。

本当の私は置き去りだった。
だからいつも孤独を感じていた。

私は本当の私をそうやって大切にしていなかった。

かといって家族が私を全く理解しようとしていなかった訳ではないんだと思うし、私も分かりたくて必死に頑張り続けた。
きっとお互い必死に頑張っていたんだと思う。

そうやって38年間必死で頑張ってもがいてきたけど、今回の出来事でそもそもそれが無理なことなんだと分かってしまった。
だからいつも理解されないし、できなかった。


でももうその力みも頑張りも要らないものだったと
人生で初めて手放すことができた気がしている。

結局家族だからいつかは分かってもらえるって期待していたのは私の方だ。
多分きっとこれからも家族は私のことが分からないし、私もずっと家族のことが分からないんだと思う。

それはこれまで私の中でとても悲しいことだった。
でもその悲しみを感じ切った今、それは悲しいことではない、ポジティブなスタートに変わる。

無邪気な私の発言や疑問は家族にとってはめんどくさいこと。

それがお互い苦手なんだったら、もうそんな傷つけ合いはしなくて良いんじゃないか。
お互いにその苦手な傷つけ合いは手放していけばいいんじゃないか。

家族だからっていう雑な条件に期待をして依存していただけだった。
狭い家族の中に縛られて制限された中で
頑張って居場所を見出そうとしていただけだった。


血が繋がってるから、家族だから当たり前って判断は実はすごく傲慢なのかも知れない。
それは家族に対しても、自分自身に対してもそうだ。

今回家族と話したことで
やっと本当の普通じゃない自分を認めて受け入れられて、
今度は私が私自身の普通じゃない事を守ってあげようと思った。

だからもう分からないことを分かろうとするのは辞める。
家族という血の繋がりに期待をするのは辞める。

私は家族という垣根に囚われるのではなく、
もっと広い範囲の1対1の人間として付き合っていきたい。

そして今度は私のそのめんどくささを、
普通とは違う生き物だと面白がって、愛してくれる人と共にし、時間を共有したい。

私が私でいられるところから居場所をつくって、家族や仲間を組み立てて
いけばいいんだと初めて心の底から思えた気がする。


◉呪縛を解き、ただ1人の私として生きていく

米寿のお祝いが終わったであろう時間に娘からメッセージが入った。
「謝りたいから来て欲しい」
それは紛れもなく娘の言葉だった。

私は少し時間を置いて気持ちの整理をしつつ、意を決して行くことを決めた。今回は親と子ではなく、人と人として話そうと決めた。

そして私ひとり祝えなかった実家の祖父への米寿のお祝いに
祖父の大好きそうなアイスクリームをたんまり買い込んで向かった。


そして実家に着き真っ先にお祝いを渡す。
実家の祖父は私のことを気にかけていたようで、お祝いを嬉しそうにしていた。

そして私に「無理するな。」と言った。

実家の祖父の口癖は誰に対しても「頑張れ!」としか言わない人だったので、いつもと違う言葉に私はとても驚いた。記念日にしていいレベルかも知れない。笑

そして父はずっと難しい顔をしていた。
父は難聴で基本あまり自分から首を突っ込んでいかない人なので、前回実家でバトルが繰り広げられた時は蚊帳の外状態だった。
でも実家に着いてその顔を見てちゃんと把握してるんだなと分かった。
そして私に何か言うわけでもなく私の背中を軽くポンと叩いた。

その行動に全てが詰まっていた。
「あ、父は分かってはいたんだな」ということが直感的に伝わったし、父は母の理解者でもあるからこそのこの行動なのだということも伝わった。


そして娘と話した。
娘は素直に「ごめんなさい。」と言ってきた。
でも試合に関することだけに対してのごめんなさいだったので、私がここまでどういう想いを持って怒っていたのかを細かく話した。

そしてもう一つ大切な話をした。

「ママは普通の人と同じ考え方や感じ方ができない。
 つまり普通の人ではない。

 だからこれからもあなたたちのことを理解するのは難しいし
 あなたたちもママのことは理解できないと思う。
 そこは本当にごめんなさい。

 でもだからと言ってそこで諦めるのではなく
 できる限り分かり合うためにちゃんと話し合うことはしていきたい。」

「そして、それがめんどくさいと感じるのなら
 いつでもパパのところにいく選択をしても良いし、
 その選択は尊重したい。」

ということも伝えた。
この話は息子に対しても伝えた。

親子としてではなく、
それぞれ1人1人が自分が幸せだと思う道を尊重できるように。
今、この時を誰であっても平等に生きられるように。


私は家族の中に無条件の愛を見出そうとしていたのかも知れない。
でも、家族とか血の繋がりというものがある時点でそもそも無条件ではない条件下の話ではないか。

本当の無条件の愛は家族とかそういったものも全部取っ払ったその先にしかないのだとハッとし、殴られたような気分になっている。


それぞれの我慢で成り立ち、そこを押し固めていく家族の在り方が
本当にいい家族と言えるのだろうか?
少なくとも私はそれが理想の家族の在り方ではない。

私はうちの家族に対してそれをずっと感じていたんだ。
でも、壊れるのが怖くて見て見ぬふりをしていた。

だからこそ私からその呪縛を解放していきたい。

家族、親子、兄弟、血の繋がり、そういうものを一旦全部取っ払って
ただただ1人と1人として付き合っていくところから始めたい。

そのためにまず私は
母親でもなく子供でも、姉でもない1人の私としての自分を尊重しようと思う。私は私としての人生を生きることからしないと始まらない。

それによってこの頑なになってしまった家族もきっと解放されてより良い形へと進化していくんだと信じている。


◉子供たちは尊重してくれていた。

自宅に帰り、母に電話をした。そして伝えた。
「米寿のお祝いに参加しない選択を尊重してくれてありがとう。」と。

おそらく私が自分としての正直なこうしたい!を実家の家族に受け入れてもらえたのは今回が初めてな気がした。
振り返れば小さなころから、お菓子もおもちゃも進路も1番欲しいものはなかなか受け入れてもらえなかったから。
誰の顔色もうかがわず言ったことが叶ったのは初めてかも知れない。

という風に考えたときに
いや、子供たちはそれを尊重してくれているなと思った。

毎晩1人でウォーキングさせてくれるし、1人でサウナも行かせてくれる。
ご飯作りたくないー!!と言ったら色々作らなくていい選択肢を提案してくれる。

どれも元旦那や実家では口が裂けても言えなかったことだ。

それどころか、娘に関しては定期的に
「ママ、早く彼氏作って幸せになりなよー」と言ってくるし
息子も
「ママは早く騙されない彼氏を作ったほうがいい。」と言う。
息子に騙されやすい人だと思われていたことは衝撃だったが(笑)
2人とも私の幸せを1番に尊重してくれようとしている。

それも母親としてではなく、1人の人間としての私として。
1番私を1人の人間として尊重してくれていたのは子供たちだった。

そんなことに改めて気付かされ、
なんだ。結局私が1番私を尊重してあげるだけなんだな。と思った。

ただそれだけで、周りは私の幸せを応援してくれる。

きっとその生き方で今を一生懸命に生きることで
実家の人たちにも勝手に伝わっていくんだと思う。

だから私は自分の幸せに正直に、今を一生懸命生きていきたい。


◉追記ーあれから1週間

この出来事から1週間が経ち、また実家へと足を運んだ。
慣れ親しんだ地元の景色は変わらず美しいが、
そこに立つ私自身は以前とは違っていた。

いつも変わらない山と変わらない田んぼ。

家族との会話の内容はいつも通りの内容だった。
でも家族の会話の中に変化を感じた。

娘の進路をそろそろ考える時期でもあるため、そんな話が出るたび
私の進路を決めた時の思い出話になるのだが
私は当時、数学が好きすぎて数学科の高校を希望した。
でも母の『女の子が数学科なんて行って何になるっていうの?普通科に行きなさい』と反対されたことでその進路を諦めた過去がある。
私はそこから数学に対する意欲を一気に失い、コースも文系を選んだ。

その話になるたびいつも母は
『でも、普通科に行っててよかったでしょ?』
『そうじゃないと今はないでしょ』と言い
私もそれを否定はできず『うん』としか言えない状況になることが多かった。
でもその都度ちょっぴりモヤつく気持ちがあったことは否定できない。

でもそのいつもの会話が今回は変わった。
『そのことはごめんね。今の世の中なら男女差別的な意見だったね。』
と初めて母が私に言い、とてもびっくりした。

母の中の何かが変わっている。そう思った。


そして更についさっきまで実家周辺を散歩して
撮った写真を両親に見せた。

空が水面に映り込む情景が美しすぎる。

すると父が珍しく口を開いた。
「撮る人の感性が良いんだろうなぁ」

いや。撮った人私です(笑)って思わず突っ込んだけど。
こんな風に感性を褒められたのは初めてかも知れない。

成績や仕事の姿勢に対して褒められたり
感性を分析されることはあっても
感性を褒められたのは初めてなんじゃないか。

ここでも何か変化を感じた。


そして大きな変化は他にもあった。
あれから息子が夏休みの宿題に積極的に取り組み出した。
父親のご飯のお誘いまで断って宿題に取り組んでいたので、私の方がびっくりした。(今までは断ることはなかった)

そしてどれだけ注意しても辞められなかったゲームを
自分で時間を決め、自分で辞められるようになった。

ここに関してはかなり手こずっていたため
この変化は私だけではなく、周りの大人全員が驚き、感動している。


きっとこうやってこれからも色んなところに
変化が波紋のように広がっていくんだろうと思う。

その波紋の最初の1滴は
間違いなく私が自分に正直に懸命に生き出したことなのだろう。

私は私のために生きる。ただそれだけの事。
でもこうやって、私の生きる世界は変わっていくのだということを今感じられているし、これからも感じていくのだろうと思う。


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