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トム・ヨークを経由して村上春樹を読む
noteに投稿しようと思うのだけど、Facebookに投稿するよりもハードルが高い。
たぶん、noteにはある程度の「完成された文章」を載せなければならない、そんなハードルを勝手に設定しているのかもしれない。
ならば、いっそのこと、とにかく書き殴って、日々感じたことを書き連ねるのも、誤字すらあるかもしれないが、書いてみるのが良いかと思ってやってみる。
先週は新曲を4、5曲は作ったと思うのだけど、今週は全く作らなかった。
先週、ParrisがWisdom Teethから新作を出し、それの音響が非常に良くて、参考になり、だけど、一方でそのまとまった音響に影響を受け過ぎるのが欠点になることもあるのでは...なんて考えているうちに10月5日を迎え、そして、とりあえず、Radiohead及びThom Yorkeをひたすら聴こう、ということになった。
Radioheadに関しては、2003年のHail To The Theifから2016年のA Moon Shaped Poolまでの4作品の順番を肚で理解してなかったように思ったので、順番に聴いた。
もちろん、どのアルバムも何度も聴いたはずだし、2007年のIn Rainbowsは発売日当日にダウンロード購入した記憶がある。
ただ、自分の中でKid Aの持つ引力というか重力に引かれ過ぎ、そして、Amnesiacの音響にも刺激を受け過ぎて、その後のRadioheadを考える暇がなかったんだと思う。
で、マーヴィン・リンが書いた上記の本を中古で買い、読んだ。
時折、挟まれるトム・ヨークの言葉に刺激を受けつつ、楽しく読んだのだろうか、で、ふと、彼が村上春樹を好きだったよな、ということで、村上春樹を読むことにした。
検索して、どうやら「風の歌を聴け」を読むのがオススメとあったので、こういう時に安直な自分はこれを即座に買い、読んだ。
思えば、村上春樹の本を読んだことがなかった。
なぜだろう、学生時代に読んだ本はドストエフスキーやカミュだった。
英文学が専攻なんだけど、英文学には全く心を惹かれなかった。
そして、英文学に惹かれるキッカケを作る友達も恋人も誰もいなかった。
高校時代、たくさんの帰国子女に囲まれ、価値観や常識感がいい意味でズレている人々に囲まれて生活していたので、大学時代に会った人々の、少なくとも自分から見れば一元的な価値観というか、それを押し付けられ、自分の人生がいかにつまらないか、ということにしなければいけないような、謎の義務感を押し付けられ、今、思えば、可能性は十分にあったろうに、無駄にしてしまったように思えて、2020年のコロナの状況の中、あまり外出できないのもあるのか、その辺のことを「後悔」という言葉は適していないと思うのだけど、何か曖昧模糊というか、全く面白味も深みもない霧に包まれているような面持ちになった。
村上春樹のこの小説は面白かった。
少なくともカミュの「異邦人」の恋人と戯れたりするシーンが好きな自分としては好みで、なんでもっと早く読まなかったのだろう、と思った。
そう、カミュの「異邦人」は、冒頭やラストの方のシーンより、恋人や友人と何気ない生活をしているシーン、そこの文章を、文字を追っているのが一番好きだ。
それはまるで、エリック・ロメールの「モード家の一夜」とかミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」とか、そんな映画をただ画面を流しながら食事をするとか、そんなライフスタイルが好きだといったところだろうか。
あと、学生時代にレイモンド・チャンドラーとかアメリカ文学も読む機会があったので、それもあるのかもしれない。
もし、学生時代に村上春樹を読んでいたら、もっと学生生活に希望が持てていたのかもしれない。いや、むしろ、理想の女性とか、理想の生活とか、そんなものを小説と現実とのギャップで余計に苦しんだのかもしれない。
いずれにしても、学生時代を無為に過ごしてしまったように思う。
それは、会うべき女性とか、会うべき友人とか、会うべき先輩とか、そんな人にあまり会うことができなかったからかもしれない。
「会うべき」という言い回しはナンセンスだが、どうもその正義に加担したくなる自分が未だに片足くらいは突っ込んでいる、そんな気がする。
学生時代の思い出に...という言葉が当時はあまりよくわからなかった。
今の時点で感じるのは、それは写真を撮るとかそういうことではない。
いや、もしかしたら、その写真と共に「この光景と、こうこうこう言った感情をこの写真に収めてみた」とでもメモをすれば、その時の感情や感触をあとで少しは思い起こせるかもしれない。
それは、頭上の2メートルくらい上なんだろうか、その辺りに作られる情景のようなものだろうか。
残念ながら、自分は学生時代にそれを誰かと共有した記憶がほとんどない。
もしかしたら、大学2年の時に出会った、新井磯乃教授くらいかもしれない。
その教授は、大学専任ではなかったのだけど、自分にとっては1番刺激的な授業をしてくれたし、ゼミがあったらその教授のを2年間でもずっとでも受けたかった。
ポストモダンを扱っていて、その教授のおかげで「去年、マリエンバードで」の映画を見ることになった。
当時は、ロクな感想を言えなかった。
今ならもう少しまともな事が言えるかもしれない。
とにかく、後にも先にもその教授くらい、ファッションとか考え方とか、色々な点において刺激的な女性は現れなかった。
最後に女性と付き合ったのは、もう10年以上前になってしまうのだけど、彼女と付き合った1番の理由は、自分の話とか生活とかを受け止めて、それを彼女なりにやってみて、それをポジティヴに自分に投げ返してくれたから、なのかもしれない。
思えば、大学くらいから、ポジティヴな要素を投げ返してくれる女性に会う機会が減った。
いや、すでに中学の頃からそうだったんだろうか。
高校は男子校だったから、本当は、あの常識が崩壊しているところに、その価値観に沿った女性もいてくれたら、楽しかったと思う。
それは恋愛がしたいとか、セックスがしたいとか、それより、何かを共有したいという欲求なのだと思う。
その恋人、Kさんとでも言っておこう、Kさんとは価値観なのか、情景なのか、とにかく、そんな温かみのあるものを共有してたんだと思う。
自分はもうその記憶を鮮明に思い浮かべるといった感じではないんだけど、たとえば、いろいろなカフェに行って、食事であるとか、コーヒーであるとか、家具であるとか、そういった事柄について言葉を交わし、今となってはその時間がビジネスという視点で見ればムダなのかもしれないけど、1番、村上春樹の小説に近い要素を含んでいたんだと思う。
それによって、今の人生がプラスに働いているかは分からない。
とりあえず、それは優越感というものでもない。
ただ、それは人間を豊かにしてくれたものだろうし、もうそのKさんに会うことはないだろうし、彼女の連絡先も知らないのだけど、ただ、そんな事柄というか匂いなんだろうか、そんなものがあったんだな、という、もう誰とも共有しない記憶は自分の中にはまだ残っている。
人生の成功、マーケティングとか、金を稼ぐ、そういったことを考えるなら、学生時代の時間は無駄なんだと思う。
けど、村上春樹の小説を読んだ後では、そう言ったことの方が無駄なのかもしれない。
自分はそのKさんとの3年くらいの生活で、確かに、今ほど快活に音楽をやったり成果を出したわけではないんだけど、たくさんの空間とか匂いを共有してきた。さっきから「共有」という言葉が気に入らないのだけど、当面、良い言葉が思いつかないからしょうがない。
そして、たぶん、学生時代に何を残したら良いのか、20代にに何を残したら良いのか、それはそんな「匂い」なのかもしれない。
別に30代でも40代でも50代でも残せはすると思う。
それは1人でも残せるものかもしれない。
別に昔の思い出に浸るわけでもないし、そんな感情の記憶が、自分の人生の何らかの創作意欲に役に立つのかな、と。
そして、誰と村上春樹の話をしたら良いかも分からない。
「村上春樹なら○○を読んだ方がいいですよ」
なんて言ってくる人がいるかもしれない。
けど、その人は
「オレはトムヨークだ」
って言ってるくらいの自信家なんだろうと、勝手な変換作業を私はしてしまう。
同じ村上春樹にしても、どこかの大学教授が勧めるのとトムヨークが勧めるのでは、違うものだと思う。
その思考が、自分の人生を支えてきた。
The Beatlesを例にすれば、
「The Beatlesと浜崎あゆみを聴いています」
と
「The BeatlesとThom Yorkeを聴いています」
となった時に、「The Beatles」という単語は全く違う意味になると思う。
自分はそんなことを音楽でずっとやってきたつもりだ。
ここ2、3日、ずっと雨が降っていて、まるで歩けなかった。
明日は傘を差してでも少しは歩こうと思う。
どうも、雨音を楽しむ余裕は6月の頃ほどないらしい。
風呂に入っている時は、そんな余裕は少しはあるのだけど。