習慣の違和感と。
Text by 星海 里帆 ( @rihohoshimi )
小さい頃、記憶が消えるということが怖かった。
24時間365日、毎日の出来事のすべてを覚えておくことはできない。
赤ちゃんのときの記憶は当然ないし、幼稚園の記憶も日々薄れていく。
自分が過ごしてきた毎日なのに、自分が生きてきた時間なのに、すべてを覚えておくことはできない。
家族との旅行も、お母さんがあの日に作った美味しいご飯も、今日友達と会話したことも、いつか忘れてしまうかもしれない。
みんなに忘れられた記憶はどこへ行ってしまうんだろう……
そのことが、幼少期の私にはすごく怖いことで、とても不安だった。
なんだかとても寂しい気持ちだった。
大人になった今でも、ふと思うことがある。
今はもう、それは仕方がないことで、すべての出来事を覚えておくなんてそりゃできないよねって、あの頃よりももちろんずっとわかっている。
「それはもう誰しもそういうものだ」
とも理解している。
それでもやっぱり、少し寂しい気持ちにもなる。
幼い頃の自分が感じた寂しさは、
今も確実に、私の心の中にある。
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私にとって、写真は日常で、記憶と記録だ。
もちろんTPOは考えるけども、日常のちょっとしたことも、パパッとiPhoneで撮影していたりする。
カメラはいつだって私の横にいる相棒だ。
まずは写メール(写メ)から始まった。
ケータイでなんでも写真に撮って、メールで送りあったり、個人サイトの日記にアップしたり、みんなでそれぞれのお気に入り写真ばかりを集めたフォトページなんかも作っていた。
「◯◯へ行ったよ!」
「◯◯を食べたよー!」
って、写真を撮るのが当たり前。
それをみんなで共有するのも、どこかにアップするのも、当たり前。
それが日常。
特別な出来事や特別な場所なんかももちろん撮影するけれど、
それよりもずっとずっと枚数が多いのが、日々の何気ないシーンの写真だ。
mixi、デコログ、クルーズブログ、アメブロ、Twitter、Instagram……
綴る場所は変わっても、日々の記憶と記録はもはや日常で、生活の一部。
日々の何気ない写真や動画を撮ることは、まさに呼吸のように自然なこと。
人に見せる写真も、見せない写真も。
全て日常の記憶と記録として、大切な日記がわりになっている。
そして、人に見せる写真よりも、日常の記録として撮る何気ない写真の方が、ずっとずっと大切だ。
それは今も変わらないし、これからも変わることはない。
これからも日常を撮影し続けていく。
それが私の日常のひとつ。
そんな私が、最近やめることにしたことがある。
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