リファビリ。一回りしてまた同じ場所に戻ってきた
絵を描くことを辞めてしまってから7年の歳月が流れた。
色々なことが起こって、絵を止めるきっかけとなったプロジェクトが終わってしまったのにも関わらず長い間描けなかった。
絵に関して複雑な感情を持ち過ぎてしまい、素直にまた描こうと思うことができないでいた。
幸か不幸かフランス現代アートの一線のアーティストとのつながりが深い男性と知り合い、彼がパリに総合施設を作るプロジェクトに加わってくれて、私の右腕のような存在になってくれた。
そのことはポジティブで同時に私のアートへの姿勢を複雑なものにした。
私にとってアート(作品)というのは、コンセプトや時代や色々な要素を含むほどその作品の厚みが増すとしても、一番大切だと思っているのは作品を前にした時に導き出される恍惚に近い感覚だと思っている。
恍惚という感覚は同時に複雑ないくつもの感情や感覚を含むことができるものだと思っている。
それはあまり知的に説明できるものではない。
でもその作品に込められたエネルギーというか、なんと説明していいかわからないけど、やっぱりそれは美なんだと思うけど。
深い意味での喜びというか。
そういうものがこもっている作品というのがあって、それは本当に素晴らしいものだと思っている。
そういうものを知的に作った作品が含んでいる場合もあるけど、それはとても少ないという印象を私は持っている。
彼のアートに関する考え方は私とは違っていた。コンセプトや知のアートを最高としていた。感覚が研ぎ澄まされた繊細さを持っている人だったけれど。
私は彼の考え方に全面的に平伏していた。自分が知らない世界を教えてくれる人としてリスペクトしすぎるくらいだった。
自分がしっかりしていたら、彼の持っている知識や人脈は私にとってプラスでしかなかったと思う。
でも自分の考えに自信がなかった。
私が彼に出会った時の自分には邪まな気持ちがたくさんあった。
なんだかわからない成功を目指しているところがあった。
現代アートをわかりたいと思ったし、その世界の中に入りたいと思っていた。
そういう欲は悪いことじゃないと思う。
ビジネスとしてアートを考えるのなら。
でも本来の私はアートについてそういう考えを持っているわけではなかった。
プロジェクトが終わった後には、そのプロジェクトの幽霊みたいなのに取り憑かれていた。アートに関する考え方の葛藤にがんじがらめになっていた。行動することができないでいた。
そういう悶々とした思いの毎日の中で、才能のある人の元で学びたいという思いが現れた。
幽霊はまだいたし、どうにもならない罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
だからこそ誰かの下で働きたいと思った。そして前から興味のあった食の世界、パリの二つ星レストランのディレクターアシスタントとして働くことになった。
現在も才能あるデザイナーの率いるチームの一員として働いている。
そういうことをしていることで、アートに対して自分が重ねてきた垢みたいなものが落ちてきたような気がする。
見栄や複雑な感情の下には見窄らしいかもしれないけど、でも純粋な何かがまた現れてきてくれた。
結局のところは遠回りしているようでいて、全ては繋がっているように思う。
こうして一回りして私はまた戻ってきた。
そして今はリファビリのようにドローイングをしている。