Parisと香港のプロジェクト。 絵を描かなくなった理由について1
私は絵を描き始めてしばらくすると、アート業界のことを理解したいと思った。
私は独学でアートを学んだので、美大卒のアーティストのようにコネクションもなく、アート業界に対する知識が浅かった。
独学でアートシーンに関する本をある程度読んでいたが、いまいち具体的な情報がなく、そういうことに飢えていたというのもある。
まずは作品作りに打ち込んで、その後のことは後からついてくるという考え方もあったのかもしれないけれど、私は父からの言葉
「アートは職業ではない」
という呪いの言葉にがんじがらめになっていた。
だからこそ、
作品を作った後それをどうやったら多くの人に見てもらうことができるか?
作品が売れるようになるのか?
職業的アーティストになるにはどうしたらいいのか?
という考えが頭の中をすぐにぐるぐるした。
美大を卒業していないアーティストがマージナルにただ作品作りをしているだけでは作品を見てもらうきっかけを作るのはなかなか難しい。
アート業界のことがよくわからない私にも、パリのギャラリーにはいくつかの種類のギャラリーがあることはわかっていた。
ギャラリーの種類についてはこちらから↓
https://note.com/hoshikuzuparis/n/n1b0fa03d68d1
その当時アーティストとして活動するためにはアートフェアに出展しなければならないと思っていて、そのためにはギャラリーに所属なければならず、ギャラリーに入るのはとても難しいことだということを知っていた。ギャラリーに入るには美大を卒業していて、学生の頃から賞をとったり、ギャラリーから目をかけてもらっていなければならない。独学でアートを学んだ私にはどうやったらアート業界に入り込めるのかという考えに取り憑かれ、そのことで頭の中がいっぱいになっていった。受け身でいても何も始まらないので、自分で展覧会を開催することを考えた。
日本人のアーティストにはクオリティーの高い作品を作っていながら、自分で自分を売り込むことが苦手だったり、語学の壁がある人が多いので、パリを基点にしている長所を生かして展覧会をオーガナイズすることを始めた。
タイミングよく若手のアーティストのグループ展を開催することに興味を持っているパリ中心地にあるギャラリーに出会った。
それで考えていたことを始めることができた。
私は2010年から2012年にかけてパリのそのギャラリーで合計7回の6人のグループ展を開催した。
パリ以外でも発表の機会を作りたくて、ニューヨークに出かけて行き、2回目の旅行でロウアーイーストサイドにあるギャラリーと話をつけることができた。
そしてそのNYのギャラリーでも3回展覧会をオーガナイズした。最初の2回は6人ずつのグループ展。
そして3回目はニューヨークでアートとイラストで活躍してる友人と刺繍と油絵のミクスとメディアの作品を作るエストニア人のアーティストと私を含めた3人展を開催した。
展覧会オーガナイズを始めた時、私は顧客を持っていたわけではなかった。
でも展覧会を重ねるたびに日本人の若手アーティストに興味を持ってくれるフランス人の顧客が少しずつ増えていった。
展覧会を開催するたびに作品は売れた。
そういう展覧会に何度か顔を出してくれていたお客の一人が、パリで店舗を出すプロジェクトの話を持ってきてくれた。
お話をいただいてから3ヶ月ほど時間をもらった。その当時服飾の仕事をしていたけれど辞めて、ニューヨークで3つの展覧会を開催して帰国した。
そしてパリ1区でギャラリーブティックをオープンすることになった。
出資者のパートナーは日本人で日本在住で、フランス語が全く話せなかった。
フランス語は話せたけれど、ペーパーワークはとても苦手だった私がフランスで会社の立ち上げから商業物件の契約、内装工事まで、パリの人脈を生かして現地の仲間に助けられながら実現した。
内装工事にも携わった。作業着を着てペンキを塗ったり、家具をデザインして設置したり、何から何まで手作りだった。
数ヶ月後何とか開店までこぎつけた。
開店当日の朝まで工事をしていたので、埃だらけの窓ガラスが気になり、自分で窓拭きをしようとして高い梯子から転がり落ちたりした。
ギャラリーブティックにはアート作品だけでなく、アクセサリーや洋服、小物までセレクトして置いた。それはそれは楽しい毎日だった。
そして出資者でパートナーのSさんが香港にも店をオープンしたいという話になり、パリ店オープン後間も無く香港と日本出張の怒涛の日々が始まった。
香港の店舗はフランスと日本のアート作品や商品を扱いたいということだった。香港店の店長はもともとホテル業界の人だったので、パリ同様内装とセレクトを全面的に任された。
なんの予備知識もないまま、たくさんの出会いの中で二つの店舗の立ち上げを行なった。
日本ではファッションの専門学校を卒業していたので、セレクトはできたとしても戦略などは随分甘かった。
今思えば夢のような話だと思う。
でもこのプロジェクトを始めて、少しづつ絵から離れることになった。
最初の目標は
「アートを続けていくためにアート業界を知りたい」
ということから始まったのにも関わらず。