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気まぐれ

生暖かい風が吹く、日の伸びた夕暮れ。
久しぶりに舞台鑑賞をした帰り。
ぼーっと遠くに飛んでいるアゲハ蝶を見ていたら私の頭上ギリギリを飛んできて旋回した。

あぁ、私たちは同じように、こんなにも自由なのにどうして何かに縛られようとするのかなって思った。もしかしたら「生きること」だけを考えているその美しい姿が、羨ましかったんだと思う。

その気持ちが彼女を呼んだんじゃないか。


舞台は、人間の欲・正義や悪・愛・言葉について考える物だった。
終わり方が中途半端だった。
よく分からなかった。
多分わたしが集中できていなかった。

愛を具現化することはできるのだろうか。
きっとあるけれど、都合のいいようにしか受け取ることができない。
人はそれをずっと探している。それを2・3時間でまとめられるわけはなくきっと正解の感想だ。

結局、信じるとか信頼とか自信の強さ優しさ次第。

そしてそれもまた、曖昧でよく移り変わる。
やっぱりただのタイミング。

私は、ひねくれているのだろうか。
逆に、純粋すぎたりするんだろうか。

永遠の愛はあると思う。って言ってきた人がいる。
私もそう思う。その人の持論とはまたちょっと違う解釈なんだけど
信じることさえできれば、そこに存在できる。
忘れられたら本当の死、と同じ論。


ぼーっとアニメを眺めていたら、ベランダのプランターに咲く一輪の花と目があった。
それは捩花だった。
上京してすぐの頃、鉢植えに咲く捩花が3輪しか咲いていないけれど一本一本が大きくしっかりしていて東京ではこう生きていくんだなって感じた。
そんな話を、父は花に気がつける私のままでいてほしいと願った。
地元の捩花は、小さくも可憐にたくさんあたり一面に広がって咲くのです。

花も、生きる環境でそう在るんだ。
人間が特別なわけではなくて花と同じだ。

そんな見つけたら嬉しくなっちゃう捩花。
捩花の花言葉は「思慕」。

先日、ストロベリームーンの日に私はこの花の上で月に願ったりしたんだ。
その下で咲いてくれていたことに気が付かなかった。
願ったことで咲いたのかもしれない。
なんてロマンティック、素敵な出来事。


良いことがあるかもねって母が言いました。
この出来事が、いいこと嬉しいことだったので
もう起こっちゃったから、どうかなって私は言いました。


言葉は不思議。
思ってることは違くても、言えてしまう。
言うことで、落ち着かせようって自己防衛のお守り。
1日に良いことが意図せず2回も起こった。
それだけで、嬉しい。それだけで、いい。
それ以上願うと、ちょっと悲しい。


穏やかでいたいと願う自分と
表現者として刺激の多い毎日を過ごしたいという自分と
葛藤の多い、いろんな現実が挨拶してくる25歳。

どれかしらに、今日は天気がいいですねって返事をしなきゃいけないんですね。そうして歳を重ねていくんですね。


難しく考えることが好きなんです。
そしてそれを、本当のひとことでまとめて私の確信に変わる瞬間がすき。
そのままでいられるといいねって、そのままでしか居られないみたい。


でも、愛とかってものは広く深すぎて私の確信に近づけるのはきっとはるかかなた先。その遠い時間を、なるべく温かくすごしたいです。

きっと私のこの、「なるべく」は「すごく」で「絶対」。
完成された物をもらうのは簡単。
でも、それを大切にしたり自ら作り出して育てるのは簡単ではない。
受け取って、大切にしてもらうのも。

自分の言葉に、ここまでの表面以外の感情があるせいでもらう言葉の意味をいちいち気にしちゃうこともあるけれど
自分の言葉だなんて自惚れであったと思った。


絵も、映像も、物語も、人間の創造するものはなんだってそうだ。
表面だけで感想を述べるのは怖いことだな。
蝶の意志が「生きることだけ」かなんて分からないのにね。

でも、どこまでが表面かなんてのもその人の塩梅…
私にとって奇跡のような瞬間もただの昨日の彼女(蝶)の気まぐれ。
奇跡と感じた、私の心もきっと気まぐれ。


(久しぶりに文をまとめることができて、嬉しい!
書けなかったのもきっと気まぐれですね。)



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