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シェアハウス・comma「三善 哲宏 編」

この作品は文芸誌・文活のリレー小説シリーズ『シェアハウス・comma』の第3話です。シリーズを通して読みたい方はこちらのマガジンをご覧ください。

耳にべたついて残るのは、ゆうべ電話越しに聞いた母からの声だ。

『ね、哲ちゃん。少しでいいの。ほんの少しでいいから。でないと今月、お米も買えないのよ』

何も感じてないフリをしながら、俺はATMのボタンを操作して、実家の母の口座に四万円の送金をした。米を買えない、というのは嘘ではないのだろう。このあいだは『もう電気が止められちゃう』という言い草だった。

でも俺は、自分が送金したなけなしの金が、ときには高いワインや見栄のための小さなアクセサリーに化けていることを知っている。俺の母親はそういう人なのだった。

銀行の自動ドアから外にでると、むっと熱気が押し寄せてきて、せいろの中でシューマイとして蒸されている気分になった。八月最終週、夕方五時半といえど残暑は厳しい。俺は仕事鞄から水筒瓶を取り出すと、フタを開けた。飲んではみたが、もう冷えていなかった。ぬるすぎる麦茶はあまり美味しくはないけど、仕方がない。

さきほど銀行内で一瞬冷えたワイシャツの背中が、また汗でしっとり湿っていくのを感じながら、俺はだらだらと歩く。とびが丘に住んで一年、この高級住宅街はいまだ俺にどこか馴染まない。俺の今の住処が、ここであることを理解はしているのだけれど、なにせ感情が追い付いてこないのだ。いまでもどこか場違い感がどうもぬぐえないでいる。

きっちり刈られた生垣に囲まれる大邸宅の前で、俺は立ち止まった。玄関のアロエの鉢はどっしりと存在感を放っていて、よっぽど俺よりも「ここにいること」に自信を持っていそうに見えた。

重い扉を開けて、玄関で靴を脱ぐ。靴箱のなかに入っている布で革靴の土ぼこりをきれいになるまで払った。『靴の汚い営業マンは、顧客から見くびられるから注意しろ』と、新入社員だったとき世話になった上司から言われたことを思い出す。何かと目をかけてくれたあの人について仕事を続けたかったが、いま俺の上に彼はいない。上司がすげ替わっていくのは、もう何度目になるだろうか。

高校を卒業してから七年、ずっと同じ製粉会社の営業社員として働いている。身を粉にして、というたとえははまりすぎていてギャグにもならない。ポケットに入っているスマホが震えたのが一瞬わかり、俺は取り出す。届いたメールを確認したが、ただの広告にすぎなくてがっかりした。

水筒と弁当箱を洗おうとキッチンに入ると、冷蔵庫を開けて「大家見習い」の白洲彩絢さんが何かごそごそやっていた。

「あ、帰りました」

ぼそりと俺が背中に声をかけた拍子に、彼女は振り返ろうとして冷蔵庫の棚に頭をぶつけた。

「いたっ」

「大丈夫です?」

涙目になっている彼女を俺は建前だけ気遣ったが、内心大きなため息をついた。今年の春から、大家の理津子さんの孫娘であるこの彩絢さんが「見習い」としてcommaに住むようになった。それはいい。それはいいのだが、この子は少々、危なっかしいところがある。

「三善さん、お帰りなさい、あの」

「なんでしょう」

俺の前に立って通り道をふさがれたら困る。さっさと弁当箱と水筒を洗わせてくれ。そう苛々していると、彩絢さんがおどおどと続けた。

「私のアプリコットジャム、知りませんか? 共用冷蔵庫に入れておいたんですが、消えちゃってて」

「知りません」

にべもなく一刀両断にして、俺は彼女を押しのけるとシンクで弁当箱を洗い始めた。俺にそう言われた彩絢さんはうつむいている。

「自分の食べものにはちゃんと名前を書いておかないと。書きましたか?」

「――書き忘れちゃいました」

しおしおと反省している様子の彩絢さんを見て「俺のほうがここの暮らしはちょっと長いとはいえ、これではどちらが大家見習いかわからないな」と思った。もちろんその言葉は実際に口には出さなかったが。

「ただいまー。え、どうしたんですか?」

そのときキッチンに入ってきたのは、初夏から205号室に入ってきた薙さんだった。彩絢さんは見るからに「味方を見つけた」とでもいうようなほっとした顔になり、薙さんにも事情を説明している。

「ジャム、消えちゃったんですね。私には心当たりはないですけど……」

そう言いながら親切な薙さんは、彩絢さんと一緒に冷蔵庫のなかを覗き込んであげている。薙さんはとびが丘にある100円ショップの「スーパーバイトリーダー」らしい。面倒見の良さが彼女の長所で、そこが重宝されているのだろうなあとぼんやり思う。

洗い終えた水筒と弁当箱を水切りカゴに載せると、俺はキッチンを無言で出て、101号室へと向かった。commaの一階にある俺の部屋に入ると、俺は手早く仕事着を脱いでまとめ、Tシャツとハーフパンツに着替えた。ちょっと休んだら、洗濯をしてしまわないと。

ベッドに転がると、俺の脳裏を、さっきの彩絢さんのおびえた小動物みたいな瞳がよぎった。正直言って、彼女のことは苦手だ。さっきの自分の態度がつっけんどんすぎる自覚はあったが、とりたてて反省する気にもならなかった。

弱さをたてにとれば、周りになんでもしてもらえると思うなよ。俺はそう頭の中でつぶやいた。弱いことを前面に押し出す女性全般に、ついつい自分の母親を重ねてしまう。

理津子さんはあんなにしっかりしているのに、どうも彩絢さんには理津子さんの血が流れているとは思えないところがあった。つい先日も、餃子パーティーのあとのお皿洗い当番に彩絢さんがあたったとき、彼女の拭き終えた皿にたくさん水がついたままで内心イラッとしてしまった。自分がきっちりした性格で神経質気味なのは認める。認めるけれど。

俺はベッドから起き上がると壁に背をつけて、スマホを操作し画面をスクロールし始めた。commaの家賃は光熱費水道代込みの月五万円。加えて大家の理津子さんに毎月何か素敵なものを贈ること。この場所でこの入居条件は破格といってよかった。けれど俺は、もっと貯金をつくりたかった。将来結婚だってしたいし、生きていく限り金が要ることは身に染みてわかっていた。腹立たしい母親だったが、いまのところ絶縁する気はなく、彼女を世話するのにだって金はあるに越したことはない。

俺は数か月前から転職活動をしていた。さっき玄関で届いたメールが、選考が進んだなどの良い報せであればよかったのだが、そうではなかった。

同じ営業という職種で、できれば今より給料の上がるところにステップアップしたい。そう思いながら祈るように、俺は結果を待っている。

のどが渇いたので何か水分を摂ろうと思い、部屋を出たところで、薄暗がりの廊下で彩絢さんが必死に背伸びしているのが見えた。

「……なに、やってるんすか」

「あの、電球が切れたので取り替えようと。でも背丈が足りず」

「脚立、あるでしょう。それに乗ればいいじゃないですか」

「あの、乗るのが怖くて」

こりゃあだめだ。そう思って俺は彼女の手から電球を奪いとると、さっさと取り替えた。ぴかりと、廊下は明るくなった。その光に照らし出された彩絢さんの顔が沈んでいる。

「ダメですね、私」

俺の胸に苦さがゆっくりと広がった。

「自分で自分をダメだと思うなら、改善していかないと。でないとずっとダメなままだと思ますよ」

思いがけなくきつい口調になってしまって、自分でも少し動揺した。彼女を避けるようにして、胸の内で言い訳する。

俺が十九歳のときは、親元を離れて一人で暮らしてた。高熱が出ても、自分でポカリやレトルト粥を買ってなんとかしてたし、電池が切れたものはなんでも自分で取り替えていた。

住人の一人から彩絢さんについて聞かされたことがある。なんでもかなりの良い大学に落ちて、浪人しているそうだが、そのことにひどく落ち込んでいるという。良い大学を受けられることも、浪人という身分でいられることも、恵まれているのだから、堂々としていればいいと俺は思うのだが。

冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、ゆっくりとグラスに注ぎ入れる。氷も入れて、ぐっと飲み干す。会社員として働くようになってから、大卒の社員に負けないようにずっとがんばってきた。

転職活動だって、高卒という身分が正直ハンデではないのか、ずっと気にしている。自分の苛立ちの矛先は本来ならば、自分自身や母親や、もしくは社会に向けられるのが正しいところなんだろう。彩絢さんに向けるのは筋違いだし、ただの八つ当たりだとわかっていても、彼女の頼りなさを見るたび、俺はもやもやしてしまうのだった。

 

俺がcommaに入居することになったきっかけは、一年前に知人に誘われたホームパーティだった。知人が知人を誘い、その知人がまた別の知人を誘い、という感じで俺は招待され、会場となったとびが丘のある邸宅に招かれた。

一品持ち寄りが参加条件だったので、俺は米から炊く海鮮パエリアをつくって持って行った。料理は好きだし得意だった。それこそ、実家の環境が許せば本当は会社員などではなくコックとして働きたかったぐらいに。

ホームパーティにはさまざまな年代・性別・国籍の人がいて、俺は改めて東京ってすげえな、いろんな人がいるな、と感心した。珍しい各国料理や、丁寧につくられた宝石のような手まり寿司、きらびやかなデザートが真っ白なクロスの大テーブルに並んでいた。

その会場で、俺は理津子さんに出会ったのだった。ベリーショートの銀髪に、発色のいい口紅をぬり、ぴんと背筋を伸ばした和装姿はひどく目立った。どこぞの金持ちのおばあさまが、と思っていたら、知り合いから紹介にあずかった。

「三善哲宏です。――橋向こうの製粉会社で、営業社員をやっています」

簡潔に挨拶した俺の鼻孔を、柑橘系の香りがくすぐった。もしかしたら、着物に焚き染めているのだろうか。すごく粋だ。上流階級の人はさすがだな。

そう思っていると、理津子さんが微笑んだ。往年の大女優のような華やかで謎めいた笑みだった。

「あなたは、何を持ってきたの?」

持ち寄り料理のことを聞かれているのだと理解し、パエリアだと答えた。

「そうなのね。あれ、とっても美味しかったわ。パエリアはお米への火の通し加減が難しいと思うのだけど、完璧だったわね」

俺は胸をなでおろした。正直、大テーブルに並んだ皿はどれも格別に美味しく、俺は自分の手作り料理に自信がなくなっていた。美味い店でテイクアウトしていくべきだったかと不安にかられていたのだった。でも理津子さんが褒めてくれたので、俺は素直に嬉しさを伝えた。

そのあと、理津子さんと話し込み、俺はついつい今のアパートの契約期限がもうすぐ切れて、安い賃貸を探しているところであることを話してしまった。理津子さんがそのとき、目を輝かせて言った言葉を、今でも記憶している。

「あなた、うちに――シェアハウス・commaにおいでなさい。きっと、いいことがあるから」

俺はその言葉を聞き、何か良い兆しを感じ取ったのだと思う。そのまま理津子さんの提案に飛びつき、commaの一員となったのだった。

 

月が替わって九月になった。ほんの少し吹く風から暑さが払われてきたのを感じながら、俺は営業車から降りる。駐車場の目の前には大きな工場が立っており「ツクダ製麺」と外壁に大きく書かれてあった。今日は得意先であるここの社長に、新しい小麦粉を提案する予定なのだ。転職が決まれば、こうやって粉製品を売ることももうなくなるのだろうな、と少し寂しくも感じながら工場の隣に立っているプレハブの事務室へ向かう。

「こんにちは、高原セイフンですー」

事務室の中に入っていくと、一番奥の席に座っている谷田社長が「んんっ?」と言った。

「高原セイフンさん、今日約束していたかね? 俺はこれから休憩時間なんだが」

そう言うと彼は、ぼろぼろの手帳を取り出してめくり始めた。

「――うん、やっぱり、二時から休憩となっている。おたくが間違えているのでは?」

俺は青くなって自分のスケジュール帳を取り出して、確認する。「九月一日 十四時」の欄には「製麺サクタ」とまぎれもなく自分の字で書かれていた。製麺サクタとツクダ製麺を見間違えたのだ。

「申し訳ありません! 訪問先を間違えました!」

谷田社長は作業服の大きな体を揺らして笑いはじめた。

「うちはかまわんが、約束していた先方のほうに早く謝りに行ったほうがいいぞ。おかんむりかもしれないからな」

工場を飛び出し、すぐに製麺サクタの社長に電話をかけた。平謝りをしたが、製麺サクタの社長は不機嫌になるのを隠そうとしなかった。

「困るよー、こっちだって予定があるんだからね。取引したいところはいろいろあるんだから、別におたくの会社から買う必要もないんでね」

そこをなんとか、誠に申し訳ございません、と繰り返して、なんとか許してもらえたが、そのあと会社に帰ってからも上司にこってり絞られた。俺にしてはありえないミスだったが、最近は仕事の休日に転職活動を詰め込んでいたから、疲れていたのかもしれない。

申し訳ございません、と一日言いまくりながら、ふと思った。

子供時代、謝ることがあんなに苦手な俺だったのに、社会人を続けるなかでいつしかそれをなんとも思わなくなったんだな、と。

もちろん、謝罪の言葉を口にするたびに心はささくれていくが、心の柔らかいところを傷つかないよう守りながら頭を下げ続けることにも、もう慣れた。

とびが丘のある駅で電車を降りると、空には燃えるようなオレンジの夕暮れが広がっていた。こんな鮮やかな夕焼けを見たのは、あのとき以来かもしれない。苦々しい気持ちを隠せなかった十二歳のとある日のことを、俺は鮮やかに記憶している。

 

『ごめんなさい。本当にごめんなさい』

十二歳の俺は、そう言いながら頭を下げ続ける母親の後ろで、うつむき奥歯を噛んでいた。母親が謝っている相手は、いまはもう離婚した俺の父親だった。たしか俺が父に生意気な口を聞いたとかで父が激昂し、俺の頬を張ろうとしたので母が俺をかばって謝り続けていたのだった。すぐキレる、嫌な父だった。でも、その父に抵抗せず、なんでもすぐに謝る母の姿勢も、俺は納得がいっていなかった。

なんで悪くないのに、そんなにすぐ謝るんだよ。悪いのは、どう見たって父親のほうじゃんか。俺が何をしたっていうんだよ。

窓から部屋の畳を一面濡らすように、西日が射しこんでいた。

父親は俺が十五歳のときに家を出ていき、実家には母親と俺が残された。ごめんなさい、と誰かが言うたび、俺がその言葉とともに頭を下げるたび、あの日のことを思い出す。俺が二十五歳になる今も、母からの金の無心を邪険にできないのは、あの日の記憶が心の奥底にわだかまっているからだと思う。

 

次の休日、俺は転職活動に時間を費やすことを、一日だけやめることに決めた。たまには休んで、疲れをとったほうがいいと思ったのだ。たっぷり朝寝をして、キッチンで珈琲を淹れてパンを焼く。午前中は散らかってホコリもたまってきた101号室の掃除に充てようと決めた。

共用の掃除機を借りて部屋じゅうにかけ終え、布団のシーツを取り換えて洗濯機に放り込んだ。脱水が終わると中庭に干す。今日は天気がいいから、夜までにぱりっと乾くだろう。さっぱりした寝床で今夜は熟睡できそうだと思うと、嬉しくなる。

ふと、部屋の隅に目をやると、小さなビニール袋にくるまれた何かが落ちていた。いったい何を買ったんだっけ、と不思議に思って拾い、中身をのぞきこんだ。

「……あ」

中にはジャムの小瓶が入っていた。アプリコットジャムではなく、りんごジャムの瓶。まだ未開封だ。俺の頭のなかが疑問符でいっぱいになる。焦って、記憶をたどる。

「あー、あのときかも……」

シェアハウスcommaの鉄則、一ヶ月に一度の理津子さんへの贈り物。俺はパエリアを褒められたことが嬉しくて、毎月理津子さんへ一品料理を作ることを恒例にしていた。

あの日は、八月のお盆過ぎだった。理津子さん用にスパイスをたくさん入れたカレーを作り、その隠し味として冷蔵庫にあったジャムを使った。あの日は材料を買い出しに行って、りんごジャムだけ買い忘れ、あとからコンビニで調達した。

調理をしながら、ハイボールの缶を飲んでいた。調理をするときは、調子を出すために少々飲酒することが多いのだった。

あとから買ったりんごジャムを冷蔵庫に入れたと思い込み、隠し味として瓶の中身全部を上機嫌でカレーの煮立つ鍋に入れた。それが、おそらく自分の買ったジャムではなくて、彩絢さんのアプリコットジャムだったのだ。

謝ることは、俺にとって今でも得意なことではない。でも、自分が悪いとはっきりわかっているときは、早めに謝るべきなのだ。


 

夜が更けても、キッチンの明かりがついている。今日の洗いもの当番は彩絢さんだ。薙さんから聞き知ったことだが、彩絢さんは大家の仕事をしてない時間は、熱心に部屋で勉強しているらしい。努力を怠る子ではないということが、俺にもわかってきていた。

かちゃかちゃと皿の触れ合う音、そして水音のするなか、俺は彩絢さんの背中に声をかけた。

「彩絢さん、ごめん。あのアプリコットジャム使ったの、やっぱり俺だったわ」

彩絢さんがボブの髪を揺らして振り返る。俺は事情を簡単に説明すると、タオルで手を拭いている彩絢さんにりんごジャムの瓶を差し出した。

「これ、まだ開けてないやつだから。アプリコットじゃなくて悪いけど、よかったら食べて」

彩絢さんが目を落としそうに丸くして、おそるおそる瓶を受け取った。そして俺に言う。

「ごめんなさい。私が瓶に名前を書いてなかったから、間違えちゃったんですね」

「あのさ」

俺はいたたまれなくなって、彼女に言った。大きな声で、伝わるように言った。

「自分が悪くないことで、謝らなくていいんだから。今回の場合、悪いのは俺、彩絢さんは、悪くない。だから謝んないで」

「は、はいっ」

俺に返事をした彩絢さんの黒々とした瞳が、まだどこか不安げに揺れていた。キッチンに入ってきたときからそうしようと思っていた提案を、俺は口にする。

「洗い物、手伝わせて。ジャムのお詫びもかねて。一人で全員分は、当番とはいえ大変だろ」

こくりとうなずいた彩絢さんの隣で、俺は皿を拭き始める。一枚、二枚……三枚。食器棚にしまっていこうとする俺の手元の重ねた皿を、彩絢さんがまじまじと見てくる。

「すごい、どれもぴかぴか」

ちょっと照れくさくなって、俺はごまかすように笑った。

「昔、料理人になりたかったから。いまはつまらんサラリーマンやってるけど」

彩絢さんは水道の蛇口をひねって締めると、俺に向き直る。

「私からしたら、三善さんはすごいです」

「えっ」

「毎日誰よりも早起きしてネクタイきちんとしめて仕事に行って。理津子さんが言っていたけど、三善さんは庭の草刈りも率先してやってくれるし、鍋パーティーや餃子パーティのときの手際もすごいって。私からしたら、こんな社会人になりたいって思えるのが、三善さんです」

俺は聞いていて気恥ずかしく、むずがゆくなる。自分よりも小柄な彩絢さんの体がすぐ隣にあることを意識して、下を向いた。六歳も年下の女の子に、なんで自分はこんなにも敵意を燃やしていたんだ。

「私、三善さんみたいにしっかりした大人になろうと思って――あの、実は台所の電球、私このあいだ脚立に乗って替えることができたんですよ。三善さんに廊下で注意されなかったら、ずっと逃げてたと思います」

まっすぐな彼女の言葉に、俺は感じ入った。

「すごいじゃん。えらいね、彩絢さん」

いままでなら「すごいね」とか「えらいね」とかを嫌味で言っていたかもしれなかった。でも、俺は今素直にそう口にし、彼女がその言葉に一瞬頬を染めたことに気づいて、はっと目をそらした。

なんだ、このちょっといい雰囲気。正直、こういうのは俺の柄じゃないのに。

「あの」

どう振る舞ったらいいかわからない空気を一掃したかったのか、彩絢さんが言葉を発したとたん、夜中のキッチンの壁を通して「きえええー」という派手な奇声が響き渡った。彩絢さんがびくりと肩を揺らしておびえた目をする。

「なんなんですか、あの声。たまに夜中にcommaのどこかから聞こえるけど、怖くて」

「あー、あれは」

俺は眉を下げると説明する。

「102号室の梶田さん、だと思う。あの人、俺もよく知らないんだけど夜中起きていて何か作業か仕事かしてるらしく、ときどき叫んでる。気にしなくていいと思うよ」

「そ、そうなんですか……」

二人の間に一瞬流れた柔らかな空気はかき消えて、あとにはちょっと気まずい俺たちが残った。

「さっき、何か言いかけた?」

その場を取り繕うために、俺は彩絢さんに聞く。彩絢さんはいま思い出した、という顔をして両手を胸の前で合わせた。

「あの、三善さん。今度、三善さんがごはん作るとき、一緒に手伝わせてもらってもいいですか。私、学べるものは学びたいんです」

おお、彩絢お嬢さん、だいぶ積極的になったな。そう思って、俺は「いいよ」と言った。

「指、切るなよ」

「さすがに切りません!」

言葉の応酬をやりあって、俺たちは顔を見合わせて笑った。お互いが、お互いの印象を変え、見直したことが自然と伝わり合った。

 

翌週の土曜日、俺はcommaのキッチンで彩絢さんと二人並んで立ち、フライパンをゆすっていた。彩絢さんは調理をするときだけ、髪留めで小さなポニーテールを作る。

「火加減は中火。強火だと皮はぱりっとするけど、焦げやすい」

「はいっ。あ、ソースはいつ入れますか」

「もう入れていいよ。ゆっくりな」

彩絢さんがフライパンに、りんごジャムと醤油をベースにしたソースをそそぎ入れると、じゅう、と鶏から出た脂がいい音を立てた。

「果物のジャムがソースになるなんて。初めて食べますが美味しそうですね」

「これは、俺の母親の得意料理で」

するりと、そんな言葉が自然に出てきた。

「久しぶりに作るなー、いつぶりだろうな」

「とってもいい匂いがします」

目を細めた彩絢さんを見ながら、俺は菜箸で鶏をひっくり返す。このレシピを作る気になったのは、おそらく俺が彩絢さんの中に、弱さだけではすまないものを見つけられたからなんだろうなと感じた。

俺は今でも、自分の母親の弱さが余り好きではない。けれど、母にも、彩絢さんにも、それだけではないところがあって、そういう面もこれから見て行かなくてはならないのだと思っている。

テーブルの上に置きっぱなしの俺のスマホが震えた。調理の手を止めて確認すると、メールが届いている。表題には「書類選考通過のお知らせ」の文字が確認できた。志望していた会社からだ。胸に喜びの感情がこみ上げてくる。俺につられて彩絢さんも自身のスマホでメールを確認しはじめた。

「あ、理津子さん、あと五分で着くそうです! 私と三善さんからの今月の贈り物、美味しそうで楽しみだって!」

通過の報せが嬉しく、にやつきそうになる表情をなんとかポーカーフェイスに保つと、俺は彩絢さんに「鶏、焦げるから火を止めて!」と大きな声で言った。

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年3月号に寄稿されています。今月も読み切り企画「お別れの前日」ほか、文活の参加作家が毎週さまざまな小説を投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品へのリンクは、以下のページからごらんください。

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