何も感じないほうが幸せかもしれないけど、それでも演劇を通じて社会について考え続けてきた、その想いのたけをまとめてみた。
こんにちは、星野奈々です。
私は19歳のときから名古屋を拠点に小劇場演劇界隈で役者・演出・制作などをしていました。
社会人として就職してからは体調を崩すことが多くなり、いわゆる躁鬱体質です。
合うクリニックや自助サービス、福祉サービスの利用を何度も検討し、行動してみましたが、
「ただ全うに社会人として働きたいだけなのにそれすら出来ない」自分のふがいなさや、使えないやつは棄てられてしまう社会の厳しさを受け容れることが自分にはむつかしく感じました。
※一度、メンタルクリニックで知能検査を受けてみましたが、お医者さんからは「ADHDだね」、「困ってるなら診断書書くけど?」と言った扱いでした。正式な診断名は頂いておりません🐰
慢性的な体調不良を自力で整えるためにと、今は演劇からは離れて、
カウンセリングやヒーリング、発達障がいやセラピーなどの心とからだの領域や、
タロットや星よみなどのスピリチュアルな分野について勉強中しています🔥
よおし、心の専門家として活動するぞと意気込んで行動していたのですが、
私はそもそも何がしたかったんだっけ?と気持ちが迷子になってしまっていました。
過去が上手く整理できてないから前に進めないんだと、無理やり捨てようと思っていたけど、捨てられないのはそこに私の本当の想いがあるからなんじゃないかな?
そう思い、一旦立ち止まってみようと過去、大好きな演劇や舞台に関わってた時代に自分で書いた文章読み返したら、何故こんなにも演劇を愛していたのに続けられなかったのだろうと悔しくなりました。
とても大切な感情だと思ったから、過去(2018年3月5日)にFacebookにあげた文章、烏丸ストロークロック『まほろばの景』を観た感想についての文章を大幅・加筆修正し、
過去の演劇に携わった思い出話や振り替えりをはさみつつ、noteにまとめてみました。
それでも、演劇を観る選択をし続けるのは何故だろうか。
2日間、東京に舞台を観に行った。
烏丸ストロークロックと、範宙遊泳、鳥公園のみっつ。どれも、一度は観たことがあり、面白いなぁ、と思っている団体。
演劇とは、一昨年(2016年)9月21日にはじめて自分で作演した作品をつくって以降、意識的に距離を空けていた。
ふと、自分はなぜまた演劇を観ることにしたのだっけ?と疑問に思い、立ち止まって考えてみることにした。
主に、烏丸の『震災系』の演劇を観て思ったお話。震災と、演劇について。
書くと軽くなりそうだけど、忘れたくないから書く。
『震災系』は観たくない?
烏丸は震災を扱った話だった。
震災が人々に与えた無力感、罪悪感。忘れたくても拭いきれない後悔の念が、ただただそこにあった。
一緒に行った友達は、「『震災系』の話は最近たくさん観たから、しばらくいいかな」と観なかった。
食傷気味なときは、誰にだってある。
観る前から私も、これは覚悟がいる作品だ、と身構えていた。
別に積極的に観たいわけでもなかった。
けど、なんか、違和感。
『震災系』は、しばらくいい。
つい過敏になってしまう。
逃れるために忘れることとか。
主人公は震災後に「何かしなきゃ」の念に駆られて仕事を辞め、施設のボランティアをしていた。
「何かしなきゃ」
「ちゃんと生きようよ」
昔の友人、知的障害者のお世話、こわいおねーさん、お父さんの背中、
常に周りからの「べし・べき」の声に縛られる主人公。
その声に従ったら、幸せなのだろうか。
正社員として働く、適齢期で結婚をする、
社会からしたら、理想的な姿なのかもしれない。年金だって払える。
結婚したら幸せ、お金を持ってたら幸せ、とかいう、幻想。結局その人次第。
主人公は、何してても、「しなきゃ」の意識が抜けない限り、幸せにはなれないだろう。
「こうあるべき」から逃がれようとすればするほど、かえって絡め取られてしまうのは、かなしい。
とても個人的な生きづらさについての話なんじゃないか?と思った。
舞台を観て、忘れてしまえば楽じゃないか?と感じた。
すべて、忘れてしまえばいい。
罪悪感や後悔、否定的な感情で支配されるぐらいなら、忘れることで逃げてしまえばいい。
だって、そもそも誰のせいでもない。
個人がどれだけ思いを馳せても、天災が「ごめんなさい」と謝ってくれる訳でも、起きた過去が取り返されるわけでもない。
そんなに苦しいなら、忘れてくれよ。
だって、私は正直忘れていた。
私は、震災の時高校生だった。
「震災からもう○年です」のニュースを観る度に、「あぁ、もうそんな前のことなんだなぁ」と、どこか他人事のように、過ぎ去った過去を懐かしむような、
そして、1年間忘れていたことを、恥じるような、3月11日はいつもそんな気持ちだった。
「何かしなきゃ」から感じる怖さ。
震災があってから、以前のように創作できなくなった、というアーティストが大勢いることはなんとなく知っていた。
それは、アーティストじゃなくても、身の覚えがある、理解できる感覚だった。
「こんな大変なときに何やってるんだ」
という人々を苛む声、とか。
テレ東がたしか一番最初のアニメの放映をしたときは、かなり話題になった覚えがある。
「こんなときだからこそ、エンタメの力で人々を元気づけたい」
「芸術は必要ないかもしれない、でも意味が無いことはない」
それを皮切りに、どんどんアニメやバラエティ番組の放映は再開されたし、やっぱりどのチャンネルをつけてもニュース一色というのは、いい悪いではなく、人の心をぎゅっと圧迫させていたように思う。
震度3程度しか揺れなかった名古屋に住む私は、
当時東北に知り合いもいなかった、
日本人である誇りや意識も、人よりないほうだった、
国のためなんてきれいごとだって、
それでもなんだかなあと、気落ちした気分を味わっていた。
誰かのために何かしたい。
それはきれいな感情だと思う。
誰かのために何かしなきゃ。
そうなると、ちょっとまずい感じがする。
思い出すのは、
「生きたくても生きれない人もいるんだ」という言葉。
裏のメッセージとしては、死を選ぼうとするのは愚かだ、生きなさいってことだと思うのだけど、そもそもなぜ人は生きようとするのか。辞めたり、死ぬ権利もあるのではないか、そのぶんまで生きるってどういうことなのか。
人は、生きて何を成し遂げたいのか。どんな風に生きたいのか。
「自分の命を次の世代に生かすため、そのための行動をし続けよう」
なんて、言うは易しだ。それが出来るならとっくに動いてるし、世界は今より平和だろう、立ち尽くしてしまう日もある。
死んだ人のぶんまで生きる、それがしっくり来る人はそれでいい。
それもそれで、人によってはうっとなる言葉なのかもしれない。
「何かしなきゃ」というムードには、そういう圧を感じる。
感じるその奥底には、
何かしてないと「(こんな私なんて)価値がない」という無価値感が眠っているのだろろうか。
私の願いはずっと変わらなくて、
私が私をどんなに否定したり、世間からみて道徳的じゃない行いを取ったとしても、
そんなことないよ、そのままであなたは価値がある存在だよって。
誰かにずっと言ってほしかったし、ずっと誰かに言いたかった。
でもそれは何もしなくていいとか、
ただぼーっと生きたらいいという意味なんだろうか?
本当に誰かの存在や想いに価値があるなら、身体が勝手に動くって本当?
私に価値があるならば、誰かのために何かできる、はず。
だから、与える側や自分の魂が本当に輝く生き方をしようって自然と思って行動に移せる、はず。
はず、はず、はず……
はず
だよ!
それをせずに中途に辞めてしまったり、死を選んだ人がいるならば、
その人はそういう人生を選択しに来た(から気にしなくていいって)簡単に言っていいんだろうか。ワカンネエナ
とにかく最初の動機は何だっていい、
続けていくうちに本物になる。
ならば、無価値で上等👎
こわくて眠れない日があったっていいじゃないの!
なぜ私は演劇を観るのだろうか。
烏丸は、途中で観ていられなくなった。
それでも、最後まで観たけど。
悲しく、苦しくなるとわかっているものを、わざわざ「みる」理由は、なんだろう。
「みない」方が、何も感じない方が、幸せかもしれないのに。
範宙も鳥公園も、どれも「観て良かった」と心から思える素敵な作品だったけれど、その分、観る「必要」というものは、ないだろうなと以前よりハッキリ感じた。
この道をわざわざ選ばなくてもいい。
それでも私は「みる」選択をし続けるのだろうか。
なぜだろう。逃げたくないとか?
考えられる理由のひとつは、知りたい。わかりたい。どうしても、忘れたくなかったから。
芸術はやっぱりむずかしいと思う。何故なら、当たり前のように享受し、理解する心を、幼い頃から培ってきたとは思えないから。
舞台なんてもってのほか。
「わけわかんない」でも「なんか気になる」
「わけわかんない」だから「知りたい」の一心で観てきた。
演劇は本当に構造が複雑で、よく混乱する。
すごく変なことをあえてしてて、そのせいで滅茶苦茶振り回されて、謎ばかり残って、でも、それもいいかなって思える感じ。
提示されたわかりやすい答えを、すぐ見つけたくなるけど、
その足掻きの中で思い出す、自身の体験や、新しい気付き、
演劇を観る中での、点と点が線になる瞬間がいいなと思う。
わかりやすさに流されたり頭の声に支配されて、感じられない自分になってしまう、それが怖かった。
ただ、蓋をして感じるのをやめたり、忘れたら楽になれるのは本当だと思う。
でも、きっと私は忘れられない、いつかは思い出す。
演劇ほぼ観なかった去年の1年は、色々忘れていたけど、別に過去の後悔や気持ちが消えるわけではなかった。
どうせいつか思い出して後悔するなら、
忘れないように時々思い出したい。
人に言われたとかじゃなく、自分がそれがいいと思うから、演劇への想いを忘れずにいられる道を歩みたい。
震災についてあえて感じたり考えること・忘れない方がいいかもしれないことと、
演劇や舞台への想いを忘れないでいること、無価値なものなど何もなくて、一人一人の存在がすでに愛に満ちたものであること、
愛とは何かを、一人一人が葛藤しながらも自分なりの答えを見つけ、感じられる必要があること。
それを思い出せるように、いつも文章を書いていたことが、
私の中で繋がりました。
当時はわからなかったけれど、
今ふりかえるとそんな旅だった。
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私は今後、心や占いのジャンルのプロとして、やっていくのかもしれない。
はたまた、全然違う道を歩むのかもしれない。
だけど、いつも胸にあるのは、舞台業界に対して感じていた無念さ、お金のなさ、志ある人や才能がある人ほど疲弊し、辞めていく実態……
どんな役割を任されても変わらない、わたしのミッションは、
・誰もが自分らしく生き生きとできる社会をつくること。
・他者を尊重しながらも表現や対話ができる場をつくること
・自然や人とのつながりを感じられる社会を作ること
舞台業界もそうなるといいなと願っています。
今は、時代の転換期で苦しいかもしれないけど、それぞれの道を続けていってほしいです。
だって、
この世界は、すべて舞台だから。
わたしもあなたも役者であり、この物語の主人公です。
忘れているかもしれないけど、
この世界は本来愛で出来ています。
あなたを傷付けた厳しさすらも、すべては成長のため。
思い出すだけで、内なる平和を取り戻すことができる。
だから、各々が今やれることを思う存分、楽しんだり、やってらんねえと思ったりしながらも、
役割を全うして生きてください。
Moved by love.
愛をこめて。
2023.11.16 星野奈々