自分の軸を持ちたいなら「○○○○」を見ないことが大切
「○○○○」の答えは「レビュー」だ。伸ばし棒を○に入れるか迷いました。ええ。
偉そうにスタートしておきながら、これは私の言葉ではない。そして誰が言ったのかも忘れてしまった。本だったか、尊敬する先輩だったか、はたまた飲み会でぽろっと出た言葉なのか。しかしこれはその通りだなと感じている。
「なんでこの商品買ったの?」と聞かれたときに「ああ、レビューの評価が良かったからだよ」と答える。Amazonに配給される生活に慣れた我々ではよくある光景だ。しかしこの回答は、あなたの意思ではない。
「レビューの評価が高かったから」または「売り上げトップだったから」さらには「検索したらいちばん上に出てきたから」これらが意味する本質的なところは「みんなが良いと言っているから」である。完全に同調圧力に負けた形だ。
気持ちはわかる。だれだって買い物には失敗したくない。しかしそれでは、あなたの個性は出てこない。個性もなければ軸もできあがらなくなってしまう。
本来であれば、購入する品というのは、あなたの価値観を反映している。その価値観が「人気だったから」では、流されて生きることを容認してしまうことにもなるのではないか?そんな危機感を覚える。
私は趣味の1つにYouTubeの鑑賞がある。私もYouTuberなので後学の意味も含まれてはいるが、ジャンルに縛りはない。ゲーム、VTuber、トーク、エンタメetc
ここであえて名前をあげることもないが、10組ぐらい更新が楽しみなクリエイターがいる。そこで、特に彼らの動画のコメント欄は絶対に読まないようにしている。
事前情報なしで動画を見たときの新鮮な気持ちを忘れたくないからだ、その後コメントを読んで「事後情報」を入れてしまうと、コンテンツ+事後情報で全く別のコンテンツになってしまう気がする。コメントによって印象が歪められてしまうような…。ここは意識してコントロールするのは難しい。無意識下に投影されてしまう。
例えば、めちゃくちゃ好みな曲をたまたまYouTubeで見つけたとしよう
「他の人はどう思っているのか?」気になり、YouTubeのコメント欄を開く「あーあ、薬物で逮捕されちゃったね〜」というコメントを見てしまう。なんだかこの曲が好きだと思った自分がダメなように感じてしまい、そっと記憶からそのアーティストを消す。
こんな経験はきっと誰でもあると思う。しかし、薬物で逮捕されたことと、アーティストの作った曲は本来であれば全く関係がない。作品に罪はないというやつ。
日本の場合は、犯罪を一度犯すと徹底的に糾弾されて復帰は不可能な世界。そんなニュースを日々目の当たりにしている私たちは、無意識に「作品にも罪あり」判定をしてしまう。だからこそ、日本人こそ、もしかするとレビューやコメントは読むべきではないのかもしれない。
とか、言っておきながら、私もレビューとかAmazonのベストセラータグついてるか、めっちゃ見ますけどね。ええ…。