村上春樹『レーダーホーゼン』と『一人称単数』の読書会に寄せて
オンラインで村上春樹の上記二つの短編を読む読書会に参加することにしたのだが、どうも別の予定が入りそうで出席できなさそうなので読んで考えたことをここに書いておこうと思います。
『一人称単数』についての問い
・なぜ男はBARで見知らぬ女からなじられたのか?について
この問いに対する自分なりの解答は3つある。
・一つ目 ただ単に女がなじりたい気分だったから
外出自粛などが続いてストレスが溜まっていたのかもしれない。まあよくあることだよね。
・二つ目 「私」があまりにもイイ男だったため
すぐそばにイイ女がいるというのに、そして場所もバーで、スーツを着て、もう女性がいたら話しかけるのが当然だという状況で、そんなことにはお構いなしという様子ですまして本なんか読んでる「私」のことが気に食わなかったんだね。だから「恥を知りなさい」なんて言われちゃってる( ´∀` )。
・三つ目 パラレルワールドの「私」がこれまたパラレルワールドのその女性にたいして「水辺」でなにかやらかしたから
これはちょっとスピリチュアル的視点をとりいれた解釈。バーに入った「私」はなんだかいつもとは「ズレ」があるような違和感を感じている。これってスピ系でよくいうパラレルワールドに入ってる感じじゃん!おまけにカウンターに自分の姿が映りこんでる。鏡面というのは異世界との連絡口になりやすい。「女」はパラレルワールドの「私」のしたことについて言及している、だから語り手の「私」には何のことだかさっぱりわからないし、当然「存じ上げている」わけもない。「女」が「私」の「お友だちのお友だち」と言っているのは、「女」は「私」と同じ世界に生きるある女性のパラレルな存在であるから。ゆえにこの「私」のことは直接は知らないけど、同時にパラレルな「私」のことはよく知っているし憎んでいる。「水辺」というのも反射して鏡面になる場所だし、異世界移動が起こっても不思議はない。おぞましい出来事というのはなにか世界間の移動にかかわる事象なのかもしれないな、なんてね。
まあ結局のところは、一人称単数ってどんな風にでも書けちゃうんだぜっていう、一人称単数の語り手の可能性を探りたかったのかなあと思いました。
『レーダーホーゼン』についての問い
・なぜ妻は突如夫を捨てたのか?について
まずなによりも『レーダーホーゼン』が収められている短編集『回転木馬のデッド・ヒート』を読んでいて、『レーダーホーゼン』をまず読み、ついでだからその前にある『はじめに・回転木馬のデッド・ヒート』も読んだら、今度読書会で取り上げられる予定だったカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』のネタバレがあって、うわあとなった。ネタバレされてしまったので『心は孤独な~』は読む気がナックなってしまいました。なのでおそらくNさんの読書会には出席できないと思います。あしからず。
さて本題にもどって。正直一度サラっと読んだだけのにわかハルキストにはよくわからないです。夫や子供から解放されて、ドイツに一人旅に来て、同時に「妻」だとか「母親」だとかいう日本での社会的な役割からも解放されたと思っていたのに、当の夫に頼まれたお土産を手に入れようと頑張っている自分の無力感をレーダーホーゼンを着て笑っている夫そっくりのドイツ人にバカにされたような気がして、そして同時に自分がいかに男性優位社会のヒエラルキーに無意識のうちに服してしまっていたのかを思い知らされたような気がして、無性に腹が立ってきたのかもしれない。この場合結局は夫に対してというよりは自分に怒っているんですよね。でもこんなのはいかにもありきたりな解釈のような気もしますね。それに、長ズボンではなくて半ズボンというのは、何なんでしょう。長ズボンよりは半ズボンの方が少年的な、悪く言えば幼稚な感じもしますね。子供のような夫に嘲笑されているようにも感じたのでしょうか。多分に子供っぽいところのある私にはいまいちピンときません。この辺は女性の意見を是非伺いたい。
あと、もう一つ考えたのは、レーダーホーゼンの絵を描くために画像を検索して見ていて思ったのだけれど、一見これって普通のズボンと違って社会の窓がついてないし、サスペンダーもあるから脱ぎにくいんじゃないかなって。男は何のためにズボンを脱ぐだろうか。用を足すときと、セックスする時だ。だとすると、夫がレーダーホーゼンを頼んだということは、もう妻のお前にズボンを脱ぐような必要性を感じていない、要するにあくまで「妻」であり娘の「母」なのであって「女」ではない。そんな潜在的なメッセージを感じてしまったんじゃなかろうか。しかも少年的な半ズボン。それを穿いて笑っている夫クリソツのドイツ人を前にして、自身の本来の女性性を否定されたような気がして、それで離婚してしまった、なんて読みはいかがでしょうか。
教訓。
—— いくつになってもエロスは大切。
追記
読書会主催のS氏から『レーダーホーゼン』には、英訳されたものをもう一度村上氏自身が翻訳しなおした版があり、最後の部分がもとの稿とは異なっており、より作品の趣旨が明確になるかもとの情報提供があった。そこで、さっそくそのもう一つの『レーダーホーゼン』を読んでみたところ、ああ、と腑に落ちる解釈が出てきたので追記という形で記しておきたい。この読みは、いかにも文学かぶれの人向けな読み方だと思う。
・異化装置としてのレーダーホーゼン
妻が夫に嫌悪感を抱いたのは、レーダーホーゼンが異化装置として働いたためである、という読みができる。「異化」とは何か。私はこの「異化」について大江健三郎が文学読解について記した『文学入門』とかなんとかいう新書本で読んで知ったように記憶している。異化、とは、私たちが慣れ親しんで何とも思わなくなっている物事を、斬新な視点などを取り入れることによってまるきり異なる物事であるかのように提示し、新鮮な気持ちで改めて捉えなおすことを促す効果であり、大江氏によれば、文学テクストの基本的な機能であるとされる。今回の場合、その役割をレーダーホーゼン(半ズボン)が担った、ということになる。
要するに、日本で夫や娘がいて、「妻」や「母」としての役割を演じることが、そしておそらく多分に男性優位的な風潮のある社会に服することが、(それこそ社会構造的に)当たり前な生活になじまざるを得ず、そこに違和感を覚えることなど考えもしなかったこの主人公の女性は、ドイツでの一人旅を通して一度そうした構造的に強要された社会的役割から解放され、ある種の自由を味わったわけだ。そして夫に頼まれていたレーダーホーゼンを作ってもらうために肌の色を除けば夫とうり二つの体型のドイツ人にモデルを頼む。そしてモデルのドイツ人がレーダーホーゼンを穿いている姿を目にする。この時女性の目の前に、記号的な「夫」が再び現れたわけである。レーダーホーゼンという異化装置を伴って。一度自由を知った女性は改めて「夫」という存在に直面した時、自分がこれまでいかに「夫」によって(もっと大きくとらえれば男性中心的な社会構造によって)制限され抑圧されていたのかということを本能的に感じたのではないだろうか。だから強い嫌悪感を抱いたのだ。
こう考えると、「話のポイントはレーダーホーゼン(あるいは半ズボン)にある」という物語終盤の女性の言葉も納得がいく。慣れ親しんで当たり前になっていた「夫」という存在がレーダーホーゼンという見慣れないものをともなって提示されたことで、異化効果が発生し、「夫」は新奇なものとして女性の目に映ったのである。
だから長ズボンではだめなのだ。日本の大人の(おそらく中年の)男性が普段身に着けることのないような衣服である必要があったのだ。そして半ズボンよりもレーダーホーゼンのほうがより奇妙だ。そう、確かにS氏の示唆していた通り、再訳版の方が作品の意図をとらえやすくなっていたのである。
などと書けば文学部の学生のレポートとしてはまあ及第点をもらえるだろう。文学部ってこんなことやってるんです。
あらゆる文学作品は何かしらの意味でこの作品におけるレーダーホーゼンのような機能を持っています。まあ夫婦の離婚程度なら大したことはないけれど、時に社会を一変させるようなこともあったりなかったり。
ペンは剣よりも強し。文学、侮るなかれですよ。ふふふ。