中也と熊
みなさんは「熊」と聞いてどのようなイメージを思い浮かべるだろうか。
私は黒くて、体が大きくて、強いというイメージがある。
ヒグマは街に出てくればニュースに取り上げられ、比較的おとなしい性格だといわれているツキノワグマであっても人的被害が全くない訳ではない。そのようなことから熊は怖い生き物というイメージが強い。
一方で可愛らしいイメージもある。「くまのプーさん」「リラックマ」「くまモン」などざっと挙げるだけでも熊をモチーフにしたキャラクターが沢山いる。
では「中原中也と熊」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
「はて?何も思い浮かばないぞ」と私は思った。手元にある資料を調べてみたが「熊」というワードが入った詩は見つからなかった。かろうじて「初夏の夜」には『白熊』と出てくる位である。(もし他にあったらすみません)
詩にはセレクトしてこなかった「熊」という言葉。しかし中也はある人物に対してそう形容した。今回はそれについて述べたいと思う。
いきなりだが、中也による一つの広告文を見てみよう。
『友人高森文夫の詩集、浚渫船が出た。(中略)僕は高森のことを想ふと、いつも一匹の美しい仔熊を聯想する。今日も彼は紺の背広を着て熊のやうにしづ/\と南国の夏の町を歩いてゐるのであらう。』 (中原中也 「詩集 浚渫船」)
これは宮崎県生まれの詩人、高森文夫さんの詩集「浚渫船」の広告文である。高森さんは(旧制)高校在学中に中也と出会い、仏文科へ進学することを勧められ、東京帝大の仏文科へ進学した。交流が親密になると中也は高森さんの故郷・宮崎へ何度か足を運んでいる。(中也が藁の上で寝ている写真はその時に撮られたものである。)高森さんもまた故郷へ帰るついでに中也の実家を度々訪れている。宮崎県にある「若山牧水記念館」では高森さんに関する展示を見ることができる。中也との出会いや交流については高森さんが書いた「ある歳末の記憶」や福島泰樹さんの「誰も語らなかった中原中也」(PHP新書)が詳しい。
『南国の夏の町』というのは宮崎県を示しているのだろう。この文章を読むと中也は高森さんのことを『熊のやう』と形容していることが分かる。
もう一つ「熊」に関する文章があったので見てみよう。
『三造は毎日家の中で熊のやうに暮してゐる。病身の、情ぶかい母親の看病もする。三造は物が叮寧である、叮寧すぎさへする。あゝ、三造は叮寧である。』(中原中也 「青年青木三造」)
これは中也の生前未発表小説である「青年青木三造」の文章である。「青木三造」という名前は架空の人物であるが、モデルは中也の友人である安原喜弘さんである。
安原さんは中也を側で支えていた友人である。河上徹太郎さんには『詩人の生涯のよき友』(中原中也詩集 河上徹太郎編「解説」)と言われ、大岡昇平さんからは『安原は中原中也と一生の伴侶だったといっていいだろう。』(大岡昇平「詩碑が建つ」)と言わせてしまうものだからその友情は相当なものである。何かにつけて人の悪口を言う中也も『関口さんのことと安原さんのことは、いつでもほめておりました。』(中原フク「私の上に降る雪は」)と母フクは語っていることから、中也にとっても特別な友人だったことが分かる。
先程引用した文章を読んでみると、安原さんのことも『熊』と形容していることが判明した。
高森さんと安原さんを『熊のよう』だと言い表した中也。次はその二人の共通点を探ってみたいと思う。
中也が書いた昭和10年12月9日付の日記には次のように書かれていた。
『高森文夫より長い手紙。寡黙な男が手紙を書くと随分語るに落ちてゐるといふこともある。然し少しづつ彼も進みつつある。』
先程引用した広告文にも『無口でそつとしておいて貰ひたい男』とあることから、高森さんは寡黙な方だったことが分かる。
次に安原さんの性格も見てみよう。
『三造の多くの友は、三造が外で無口だから家では可なり話すのだらうと思つてゐる。言葉の量から言へば無論それはさうなのである。だが三造は家でも外でも、自我に就いては一言もせぬ。』(中原中也 「青年青木三造」)
安原さん宛の手紙にも『君はあんまり無言すぎます。』と多少の苦言を呈している。このことから安原さんも口数の少ない方だったことが分かる。
以上から共通点は、【寡黙・無口】ということが分かった。確かに熊は鳥のようにさえずる訳でも、犬や猫のように鳴いたりしない。
中也は二人を見てそのような大人しい熊を連想したのだろう。