中原中也の交友録

2021年2月17日(水)〜2022年2月13日(日)の間、 中原中也記念館(山口県 湯田温泉)にて「友情」をテーマに中原中也とその友人たちについて紹介する展示が開催されています。私は中也さんの詩が大好きなのですが、小林秀雄・大岡昇平・安原喜弘(以下人物名・敬称略)といった友人たちとの関係も大好きです。

そんな訳で彼らの「友情」に惹かれた一人として筆を執ってみることにしました。稚拙な文章ですが、少しでも興味を持っていただけたら幸いです。

(幾つかの文献で書かれている内容が異なる部分に関してはなるべく新しい情報を基にしております。間違いのないように気をつけておりますが、私はまだ勉強中の身であり、勘違いしている部分もあるかもしれません。あくまでも素人のファンが纏めた文章に過ぎないことをご理解いただけますようよろしくお願い申し上げます。)

中原中也は1907年4月29日に現在の山口県山口市湯田温泉で生まれました。小学生になると神童とも呼ばれ、いわゆる優等生だった訳ですが中学生になると文学へ熱中し、ついに落第してしまいます。その後京都立命館中学へ転校し、一人暮らしをはじめました。その時に出会ったのが女優として活動していた長谷川泰子です。2人は同棲し、1925年には一緒に上京しました。そこで出会ったのがのちに批評家として名を馳せる小林秀雄です。小林は中原の5歳年上であり、当時は東京帝国大学に通う大学生でした。小林と中原、そして泰子は交流を続けるうちに泰子が小林の元へと去ってしまいます。(この出来事については大岡昇平「中原中也」や長谷川泰子「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」辺りが詳しいです。これらの書の他にも中原・小林・泰子を巡る関係は様々な方が考察されているので気になる方は調べてみてください。)色々ありましたがそれでも小林と中原の文学的な交流は続きました。

1927年(昭和2年)

春、小林秀雄の紹介で音楽評論家の河上徹太郎と出会います。中也は河上に「地極の天使」や「ためいき」の詩を贈りました。河上の紹介で作曲家の諸井三郎に出会い、自分の詩の作曲を依頼しました。彼らを通して音楽団体「スルヤ」との交流が生まれました。

諸井の紹介で関口隆克と出会います。関口はのちに開成学園の校長になる方です。中也の母、フクは「中也の一番好きだった人」と語っています。しばらくしたのち、中原が関口の元へ引越し、会社員の石田と合わせて3人での共同生活が始まります。3人とも三つ葉が好きで、月末の請求が百円になったこともありました。(この話は復刻版「白痴群」(日本近代文学館)の別冊で読むことができます。)また中原から「修羅街輓歌」という詩が贈られました。

1928年(昭和3年)

小林から紹介を受けたのが大岡昇平です。大岡は復員したのちに「野火」や「レイテ戦記」を執筆し、小説・翻訳など幅広く活躍することになります。小説家としての一面を持つ一方中原中也や富永太郎研究に意欲的に取り組んだ人でもあります。この当時は成城高校に通う高校生でした。中原とは会えば喧嘩する仲だったそう。数年後大学を卒業してサラリーマンとして働くことになった大岡に対して中原から批判の詩「玩具の賦」が贈られます。清々しいくらいに真正面から対立しているのが面白いです。

そして大岡から紹介されたのが安原喜弘です。安原は大岡と同級生であり、演劇や芸術に熱心に取り組む学生でした。安原は寡黙な人でしたが献身的な人であり、大岡からは「(中原の)生涯の伴侶」と評しています。安原は筆まめだった中原からの手紙を多く(なんと100通以上!)受け取って保管していた人物であり、手紙の内容はのちに彼が執筆した「中原中也の手紙」という本で読むことができます。また、2014年にはNEWSの増田貴久が主演・安原喜弘役で「フレンドー今夜此処での一と殷盛り」という戯が公演されました。DVD化はされておりませんが、脚本を雑誌「喜劇悲劇 2014年12月号」(早川書房)にて読むことができます。

1929年(昭和4年)

「白痴群」という文芸同人誌を創刊します。中原が企画を提案し、発表する場を欲していた河上が協力をするという形で始まりました。河上が友人である村井康男を誘い、村井が阿部六郎を誘いました。(村井と阿部は共に成城高校の先生。)そして、メンバーを集めるために企画段階では高校3年生だった村井の教え子の中から4人選びました。その4人が大岡昇平・安原喜弘・富永次郎(富永太郎の弟)・古谷綱武です。創刊される頃には大岡・安原・富永の3人は京都帝国大学に進学しました。

号によって多少のメンバーの入れ替わりはありますが、内海誓一郎や小林佐規子も「白痴群」に参加していました。因みに佐規子は泰子のことです。当時潔癖症の症状があった泰子は小林の母から改名を勧められて佐紀子と名乗っていました。同人仲間は彼女のことを「お佐紀」や「お佐紀さん」と呼んでいたそうです。余談ですが、小林はこの頃奈良にいました。

1930年(昭和5年)

4月、「白痴群」(全6号)終刊。

この頃中原は大岡に会えば喧嘩をし、富永とも仲違いをしています。中原は安原に酒場のマドンナと付き合うよう勧めます。(マドンナの名前は秋子。「フレンドー今夜此処での一と殷盛り」に登場するヒロインの秋子はこの方がモデルです。実際に付き合うことはありませんでした。)中原は安原と会うたびにフランスへ行くことを語ります。

1931年(昭和6年)

安原に「羊の歌」を贈ります。この詩は詩集『山羊の歌』に収録されました。詩の中に登場する9歳の女の子のモデルは安原の妹だとされています。(「any」vol.81 2012年夏「手紙が語る中原中也と安原喜弘の魂の交流」より )

東京では珍しく大雪の日。詩人の高森文夫に出会います。早稲田大学英文科に進学しようと考えていた高森に対して中原は東京帝国大学仏文科へ進学することを勧めます。交友が繁くなると、京都・(高森の故郷)宮崎・青島・天草・長崎など共に旅行しました。

1932年(昭和7年)

3月下旬、安原を故郷に案内します。長門峡で盃をあげ、秋吉洞を見に行きました。この頃から安原との交流が繁くなります。月に20日も会っていたそうです。

詩集『山羊の歌』の編集作業に取り掛かりますが出版社が決まりません。安原が協力して奔走するも上手くいかず。この頃の中原は安原・関口など一部の友人を除き、多くの友人と仲違いをしました。

1933年(昭和8年)

「紀元」の同人に参加します。「紀元」には坂口安吾をはじめとした若い人達が集まっていました。(「紀元」の話は安吾の友人である若園清太郎著『わが坂口安吾』(昭和出版)が詳しいです。中原の話も少し出てきます。)『中原中也の手紙』でも中原が富永が参加することをみんなに了承を得ていたり、安原の参加を勧めていたことが分かります。安原が参加し、のちに加藤英倫も加わりました。(加藤は安原や大岡の同級生)

12月3日、遠縁にあたる上野孝子と結婚します。地元の湯田温泉にある西村屋にて披露宴が2日間に渡って行われました。中原が素直に結婚に応じたのは中原中也の七不思議の一つなんだとか。

1934年(昭和9年)

長男・文也が生まれます。中原は子煩悩で息子を相当可愛がっていました。

12月8日、『山羊の歌』が文圃堂から出版されました。文圃堂という名の本屋を営んでいたのが野々上慶一です。野々上は小林らが参加している「文學界」の発行も手掛けていました。中也は小林若しくは青山の紹介で野々上の所へやって来ました。装丁はさまざまな経緯がありましたが、最終的には『宮沢賢治全集』を手掛けた高村光太郎が無償で引き受けてくれました。『山羊の歌』と『宮沢賢治全集』の表紙を見比べてみるとよく似ているのが分かります。

1935年(昭和10年)

3月、花園アパートに移り住みます。花園アパートには美術評論家であり、装丁家であり骨董蒐集家でもあった青山二郎が住んでいました。「ィちゃん」という愛称で呼ばれていた青山の家には文士や芸術家などに限らず様々な人々が行き交い、「青山学院」とも呼ばれていました。ここには小林や大岡なども通っており、彼らとの交友も再び繁くなります。中原は何度も青山宅を訪れ、皆の前で詩を詠んだりしていました。また青山には「月下の告白」や「三毛猫の主の歌へる」という詩が贈られました。

6月、花園アパートから市ヶ谷に転居します。市ヶ谷の家は中原の親戚である中原岩三郎の持ち家であり、NHKの面接を紹介してくれた方でもあります。中原のきっちりと着こなした背広姿の写真は、この面接のために撮りました。面接の結果は思わしくありませんでした。

12月、小林の紹介により「四季」の同人となります。「四季」は堀辰雄や三好達治らが中心となって発刊されました。中原は「四季派」の人々との交流はあまり意欲的ではありませんでした。期待の星の立原道造と"アウトサイダー"な中原との対比が興味深いです。

1936年(昭和11年)

11月10日、文也が亡くなります。中原は文也が亡くなった現実が受け入れられず棺に入れる段階になっても手を離さなかったそうです。

この出来事から約1ヶ月後に回想録「文也の一生」そして「夏の夜の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」の詩が毛筆で書かれました。これらの作品には優しい思い出の中に深い悲しみが漂っているようで、読むと胸が締めつけられるような気持ちになります。

12月、次男・愛雅よしまさが誕生します。しかし中原は文也の死のショックから抜け出すことができず、神経衰弱に陥ってしまいます。この頃から病床に臥しがちになり、翌月には不本意に精神病院へ入院させられる形となりました。

1937年(昭和12年)

2月15日、退院。

2月下旬、文也の面影を感じる場所に住み続けることに辛さを感じた中原は鎌倉に転居します。鎌倉には小林・大岡・関口・今日出海など多くの友人たちが住んでいました。この頃の日記を読んでみると小林との交流がとても増えたことが分かります。小林は女性同士で話が盛り上がるだろうと思い、奥さんを連れて中原宅を訪れ、4人でトランプやドミノをしたこともあったそうです。また家族ぐるみで横浜に行ったこともありました。

4月20日、小林と共に妙本寺の海堂の花を見に行きました。のちに小林は「中原中也の思ひ出」というエッセイで印象深いこの日のことを回想しています。中原は 

「小林を誘って日本一の海棠を見にゆく。
大したこともなし。しかし、きれいなものなり。」

と日記に書き綴りました。

今年中に帰郷することを決意。友人に会えば地元の県庁職員となって働くことや、色々なところを旅したいなど語りました。中原の頭の中には暫くの間東京に戻る予定はありませんでした。

9月下旬、『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託します。この頃の中原は黄ばんだ顔で腕には包帯が巻かれていたと小林は述べており、体調が思わしくなかったことが分かります。足もふらつくため、ステッキをつきながら歩いていました。

10月

5日、結核性脳膜炎を発病します。

翌日、鎌倉養成院に入院します。多くの友人たちが見舞いに行き、この時のことを語っています。中原の母や弟の思郎も駆けつけました。

22日午前0時10分、帰らぬ人となる。30歳でした。

24日、鎌倉の寿福寺で告別式が行われました。

遺骨は故郷山口県の吉敷にある「中原家累代之墓」に葬られました。この墓の達筆な字は中原が子どもの頃に書いたものでした。

11月、安原の元に10月5日付の投函されずじまいだった手紙が中原の母から送られました。

1938年(昭和13年)

1月12日、次男・愛雅が亡くなります。

4月、小林ら友人の協力により 『在りし日の歌』が創元社から刊行されます。装丁は青山二郎が担当しました。

その後

1965年(昭和40年)

6月4日、中原の生家の近くにある井上公園に詩碑が建てられました。詩碑には小林の筆による「帰郷」が刻まれ、碑文は大岡が担当しました。除幕式には大岡・今日出海・小林・河上らが出席しました。

1972年(昭和47年)

5月、中原の生家が蔵と茶室を残して焼失してしまいます。中原の一部の遺稿や遺品に焼け跡がついているのはこの時の火災によるものです。火災の際には思郎が中原の遺稿や遺品を救い出しました。

1994年(平成6年)

2月18日、中原の生家の跡地の一部に「中原中也記念館」が開館しました。ここでは中原に関するさまざまなイベントが開催されています。今回の展示だけでなく過去にも中原の友人に関する展示もされており、これからも見逃せません。

まとめ

中也さんは30年という生涯の間に沢山の詩を遺しました。詩を作るきっかけになったのは弟の死から始まっているので中也さんの詩を読んでいるとどこか悲しみが漂う感じもしますが、その中でも悲しみに寄り添う優しさがあり、中也さんの詩は死後80年以上経った後でも多くの人に詠み継がれています。 

本当は中也さんを語る上で外せない富永太郎や高橋新吉、草野心平など関係の深い人物が他にもまだ沢山いるのですが、今回はここまでにさせていただきます。私自身まだまだ勉強中の身ですので至らぬ点があったと思いますが、ご容赦ください。

「もっと知りたい!」と思った方はぜひ以下の文献を参考にしながら読んでみてください。気がつけばあれもこれもと読みたい本が自然と増えていきます(笑)

あと公益財団法人山口市文化振興財団さんが発行されている「any」という情報誌には中原中也記念館の展示に関する記事が載せられており、とても充実した内容となっておりますので是非読んでみてください。(バックナンバーはネットから読むことができます)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【参考文献】

『中原中也』(角川文庫)大岡昇平 著
『中原中也の手紙』(講談社文芸文庫)安原喜弘著・編
『私の上に降る雪はーわが子中原中也を語る』
(講談社文芸文庫) 中原フク 述・村上護 編
『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』(角川ソフィア文庫)長谷川泰子 述・村上護 編
『中原中也詩集』(岩波文庫) 大岡昇平 編
『「白痴群」復刻版 別冊』(日本近代文学館)
「解説」大岡昇平 「中原中也との出合いと別れ」関口隆克 「あやふやな記憶」古谷綱武
『新潮日本文学アルバム 30 中原中也』
(新潮社)編集・評伝 秋山駿  エッセイ 大岡昇平
『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』(小沢書店)野々上慶一
『新編中原中也全集 第五巻 日記・書簡』
(本文篇・解題篇)角川書店
『誰も語らなかった中原中也』福島泰樹(PHP研究所)
中原中也記念館HP https://chuyakan.jp/user-guide/facilities/
『any』vol.8 2012年夏号(7月~9月号)
公益財団法人山口市文化振興財団
『わが師わが友』大岡昇平 (創元社)
『小林秀雄』(中央公論社)(1965年)