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宮本久義(編著)『インドを旅する55章』明石書店

今まで行った国の中で、インドが一番楽しく、一番好きで、一番思い出に残っている。行けば行くほど、知れば知るほど、インドの魅力にハマっていく。だだ、ジャイナ教やスィク教、カースト下層の人々などのマイノリティについての知見が少ないと感じる。

本noteは、概説書を読んで学んだことのメモである。


インドの多様性に分け入る

インドを旅していると、州境を越えた瞬間から書かれている文字や話されている言語が違っているのに気づくことがある。インドは現在(2020年時点)、28の州と8つの連邦直轄領によって成り立っているが、この政治単位の基礎となっている州の編成は、1956年になされたいわゆる「言語州」の設定である。基本的に文字伝統を持つメジャーな言語を軸として編成された州たちであるが、現在でも州ごとに公用語を持つなど、大きな影響力を持っている。インドの連邦公用語はデーヴァナーガリー文字で表記されるヒンディー語で、加えて副次的な公的言語(準公用語)として英語が指定されている。そのほかに、憲法によって認定された主要言語は18を数える。こうしたメジャーな言語を含めたうえで、一説によると国内では179の言語と544の方言があるといわれている。

pp29-30.

デリー

デリーの本当の魅力は、政治都市としてではなく、宗教都市と捉えることで浮き彫りになる。…(中略)…13世紀にサマルカンドやバグダードなどがモンゴル人の襲撃によって陥落した後、高名な学者や聖者などが難を逃れてデリーに集ったことで、デリーはイスラーム世界の政治・経済・宗教・教育の中心都市となった。

p43.

・ニザームッディーン…慈善活動家で権力と癒着せず、常に庶民の味方であったため、人々から「スルターンジー(皇帝様)」として慕われるようになった
・ニザームッディーン廟…南アジアを代表するイスラーム教の聖地
→デリーメトロ「Sarai kale Khan-Nizamuddin」が最寄り駅

コルカタ

・アルメニアン・ガート
・ニムトラ火葬場…薪の火葬場
・クモリトゥリ…ヒンドゥー神像造師街
・ケオラトラ火葬場…インド初の電気火葬場

シムラー

1814〜16年のグルカ戦争にイギリスが勝つまではネパール領で、その名残は、この地のことばや衣食住文化の端々にまで残っている。イギリス植民地政府は…(中略)…この地を保養・避暑地のヒルステーションとして開発、1865〜1939年には夏季には耐えがたい暑さになるカルカッタ(現コルカタ)やデリーを避けて、イギリス領「インド帝国」の夏の首都とした。そのさい、総督以下、使用人にいたるまでの1万人にも及ぶ人口が毎年この夏だけの仮の首都に移動したので、総督邸をはじめ、各省庁、市庁舎や郵便・電報局、教会や図書館、ホテルやレストランなどが軒を連ねて、山の背やそこにいたる急斜面を埋めた。

pp58-59.

ガヤー(≠ブッダガヤ)

・ヒンドゥー教徒にとっては、両親の死後に必ず訪れなければならない特別な場所
・祖先祭祀(シュラーッダ儀礼)の執行に最も適した場所で、ガヤーで供養すると祖先は解脱を得られる、この世で彷徨い苦しむ魂に平静を与えられる
・ヒンドゥー教のお盆の時期(9月中旬から10月中旬)には何十万の人が訪れる
・ヴィシュヌパド寺院
※ヒンドゥー教徒以外は原則入場禁止だが、祖先祭祀の執行に来たといえば快く迎えてくれるだろう
・プレータシラー(死霊の岩)という山


ナガランド

ヒンドゥーでも、イスラームでもない。現在こそバプティスト系の教会が各地にそびえるものの、彼らの暮らしには精霊信仰に育まれた豊穣な文化が息づいている。それはキリスト教を巧妙に絡み取り、いまもなお自然への畏敬と、大地への帰属意識を強くしている。…(中略)…1947年8月14日、インド独立よりも1日早く宣言されたナガランド独立。それが世界に承認されていれば、ここには稀有な国家が誕生していたはずだった。

p70.

・インド建国以来2011年まで、外国人の立ち入りが厳しく制限されてきた
・ナガランドには「国軍特別権限法」という法律がある
→士官以上のインド軍兵士は、治安維持上「疑わしい」ナガ人をその場で殺害しても、罪に問われることはない

スィク教寺院を訪ねる

・グルドワーラー…スィク教の礼拝施設、スィク教寺院
→日々の生活の中でとても身近な存在となっている

パキスタンとの国境近くのアムリトサルにあるハルマンディル・サーヒブ(通称ゴールデン・テンプル)はスィク教の総本山であり、世界中から多くの人々が訪れる。海外に在住するスィク教徒移民のほか、外国人観光客に姿も目につく。現在ではパンジャーブの観光名所として賑わうゴールデン・テンプルだが、1984年にはインド政府軍が侵攻し、当時ゴールデン・デンプルを拠点とながらパンジャーブの独立を掲げ活動していたスィク教急進派の武装グループのメンバーのほか、一般の参拝客にも多くの犠牲者を出した。

pp97-98.

ジャイナ教寺院を旅する

・ジャイナ教はヒンドゥーの習慣に対して批判的
→「身体を水に浸して解脱できるのなら、川の中で泳いでいる魚たちは、とうの昔にみな解脱しているだろう」

・ジャイナ教の聖地…その多くは、丘陵や山岳地帯につくられている
→西インド(パリタナ)のシャトゥルンジャヤ、ギルナール

ジャイナ教の聖地が水辺には作られない主たる理由は、水辺や湿地には生命が満ち溢れているからであろう。近づけば殺生をおかしてしまう危険性が高いから、できるだけ遠ざけたいのであろう。…(中略)…「危うきには近づくな」、これがジャイナ教の一貫した態度であると思われる。あんがいこの辺りに、ヒンドゥーとの聖地をめぐる競合を防ぎ、長くインドの宗教社会の中で、うまくお互いの距離を保ちながら共存し得た一つの理由があるのかもしれない。

pp101-102.

ダリトの世界に交わる

「あなたの名前はなんですか?」…(中略)…通常の、ごくありふれた挨拶言葉と感じる人もいるだろう。しかし、インドという社会状況において考えた場合、この問いかけは、単に呼称を尋ねる以上の、まったく異なる重みを含む問いかけと同義となる。すなわち次の問いである。「あなたのカーストは何ですか?」

p138.

・名前を問うことの暴力性は、特に社会的下層にあるとされる人々に如実に振るわれることになる
→ダリト(不可触民」とされる人には特に顕著

名前/カーストを問うことは、すなわち、相手との距離感をはかり、見定め、いかなる関係性を築いていくかと試みる、振る舞いの第一歩なのである。

p143.

ストリートから考える

灼熱、埃、牛、物乞い、神々、カレーにチャーイ…実はわれわれが想像する「インド」を構成するもののほとんどは、インドのストリートに由来している。

p150.

チベット難民との出会い

・ダラムラサのマクロード・ガンジ…1950年代以降、政治的な理由で祖国を離れて暮らすチベット難民が亡命政府を設立した仮の首都。ダライ・ラマ14世もいる。

インドを食べ歩く

手で食べるのだから、手は清潔にしておかなくてはいけない。それでインドでは食事の前には必ず手を洗う習慣がついている。レストランでも手を洗う場所が必ずある。食べたあとにも手を洗うが、そのときに口も漱がなくてはならない。これはアーチャマナといって、口でクチュクチュした水は飲まずに吐き出すことになっている。すでに紀元前後に編纂された『マヌ法典』に説かれている浄化儀礼なのである。水を飲みたければ、そのあとに飲めばよいのである。

p214.

嗜好品あれこれ

・パーン…キンマの葉に消石灰や刻んだビンロウジなどの香辛料を入れて包んだもので、食後などに口を爽やかにするもの。汁は飲んではいけない。汁は唾液と一緒に口をすぼめて一気にピュッと吐き出す。
・ビーリー…長さ5cmほどの葉巻
・噛みタバコ

行ってみたい場所

・シェール・ハーン廟(Sher Shah Suri Tomb…サーサーラームという場所にある
・ブーンディー(Bundi)…城郭都市
・バーンガル…城郭都市、インド人には心霊スポットとして人気
・チットールガル(Chittorgarh Fort)…ウダイプル郊外
・クンバールガル(Kumbhalgarh Fort)…ウダイプル郊外

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