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イエスの幼子時代

2022.1.20

そこは過去を捨てた人がたどり着く場所。着いたときには過去の記憶は失われている。過去があったはずだとはわかっているが、思い出すことはできない。

名前も新しくもらう。言葉は新しく習得しなくてはならない。

そこでは、生きていくのに必要なものは質素だが無料で手に入る。怖い思いもしないし、人々は総じて親切で穏やか。

欲というものが少ないので、人より抜きん出ようとか、もっと効率的にやろうとか、性欲も(特に女性は)あまりない。必要な場合は、公営の処理施設に行けばよい。

そういう世界にやってきた初老の男シモンは、船で出会った迷子の男の子、ダビードの面倒を見ながら彼の母親を探している。(なぜかシモンには確信があって、会えばきっとすぐに母親だとわかると信じている。)

この二人が母親を探しながら出会うエピソードが書かれている。

まず思ったのが、「イエス」って、すべての子どもじゃん!てこと。

ダビードは遠慮しない。自分のやりたいことを貫く。振り回す。常識がない。才能豊か。理屈や知識はなくても大事なことは直観でわかっている。

学校はそんなダビードをもてあます。とても面倒見れないと言って特別学校に入れようとするが、そこからもダビードは逃げ出す。

シモンは常識的、世間的父親。一生懸命ダビードのために世話を焼くが、それは支配であり押し付けでしかないのをわかっていない。ダビードが母親のもとに行くことを望むが、いざいなくなると耐えられない。(「これからの自分の人生を築くにも、核となるものが残っていない」)

キリスト教のパロディ?なのかもしれないけど、知識がないので、そこはわからないけど、知らなくても十分おもしろい。家族と社会の原型?

次の【イエスの学校時代】も面白い。

幼子時代は抱腹絶倒的おもしろさだったけど、学校時代の方はそうはいかない。一段深刻・・。

ドミトリーがダビードに言う。「愛と憎しみ、どちらかだけ持つことはできないんだよ。塩と胡椒みたいなもんだね。黒と白というか」

彼に「なせ殺したのか?」と問うても、それは「なぜ愛したのか?」と同義。その問いに答えられる人はいるのだろうか・・。

なんか深いので、またいつか読み返そう。


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