自分のエゴのために生きる人間
あなたは何のために生きている?
最近、ある人とちょっとした深い議論をした。
(この話題は、もしかしたら世間的にはタブーとされているものに
触れているかもしれない、ということも先にお伝えしておこう)
ことの発端は、その人が私に対して意見を聞きたい
と放った一つの命題だった。
「もしあなたが女性で、妊活のために事前検査を実施して
検査の結果、医者から『あなたの遺伝子(あるいはパートナーの遺伝子)
からは、子どもが何らかの障がいを持って生まれる可能性が50%ある』
と告げられた時、あなたはそれでも産もうと思う?」
これは非常に面白い観点、かつ現実的にも非常に重要な観点だと思った。
まず直感で、私は「(私が仮に女性だとして)50%の確率で自分の生んだ子どもに障がいがある可能性があるということは、50%の確率で障がいのない子どもが生まれるということだ。であれば、おそらく私は産むことを選択する」と答えた。
ただ、当然だがこの回答には違和感がある。
私は生まれた時から現在まで男性であり、現代の技術では男性が妊娠し出産まですることがほぼ不可能である点。
つまり、本当に想像や勝手な思いの上で、でしか答えられないということだ。
実際に妊娠し出産する、あるいはそれができる女性が、その期間のみならずどういう思いで過ごしているのかなど、われわれ男性には到底想像し得ない。
その勝手な想像の上で、私は障がいを持たずして50%の確率で生まれてくる可能性があるのなら、妊娠し出産すると思う、と答えたわけだ。
これには、私の継承論的なバイアスが含まれている。
つまり「私たち人間は何のために生まれてきているのか」というバイアスがかかっている、ということだ。
例えば、私が妻と子どもを育まない選択をし、かつ我々の家系の兄弟も全員が子孫を残すという選択をしなかった場合、この血筋は私たちを末裔として消滅する。
ただ兄弟のうち一人でも子孫を残せていれば、その後に続く可能性はあるため、この例えは極端と言えば極端である。
私たちがいま存在し続けられているのは、私たちの親が子どもを育むという選択をした結果だ。これが、先代もその祖先でも行われてきて、今がある。
そういう意味でも、私はこの血筋を絶やしてはいけない責任があると思っている。
そしてもう少し広義的に見た「人間」という種族にも、同様のことが言えるはずだ。
人間という種族の繁栄のためにも、私は子孫を残していく必要があると思っている。
先ほどの命題に戻ると、現実的に障がいを(どのくらい重度の障がいを持っているかにもよるが)持っている人が、その血筋を絶やさず反映させ続けることは、私は難しいと考えている。
障がいのある人から生まれた子どもの方が、そうでない人から生まれた子どもよりも、一定の割合で障がいを持って生まれてくる可能性はあるという。
とはいえ、もし仮に私が女性であったとしたら、障がいを持たない子どもが生まれて来るまで子どもを産む、という選択をするだろう。
基本的には、これが私の考えだ。
しかし、この命題について考えるには、他にも考えるべき要素がある。
例えば、最初の3人に障がいを持つ子どもが生まれ、4人目でそうでない子どもが生まれた時、この4人を経済的に困窮なく育てることができるかどうか、という要素。
それから、この人は今回「50%」という可能性を仮で提示してきたが、これが80%だったら?20%だったら?という変数的要素。
さらには、この事前調査がどれだけ信用できるのか(科学をどこまで信用するのか)、そして環境要因的に母体が健康であればその可能性は下がるのではないか、などの要素。
正直、私が女性で、医者から「80%の確率で…」と言われたら、子孫を残すという選択はしないのだろう。
何なら、私はそう告げられて、パートナーに子どもが欲しいという意思があるのであれば、さよならを告げる覚悟さえある。
かくして、私の遺伝論は偽、偽善だったということがわかった。
80%の確率では子孫を残す選択をしない、ということは、少なくとも私の血筋は絶えるわけだからだ。
自分でも意外だった。
ここまでつらつらと書いた内容を、その命題を提示してきた人間に伝えたところ、その人は「私がもし女性なら、50%と言われたら子どもを産む選択はしないだろう。だって、子どもが辛いだろうから」と答えた。
その人的には、例えば身長が伸びない、あるいは下半身不随である、そういった身体的な類の障がいが自分の子どもにあったら、彼(彼女)は周りと違う自分に押しつぶされて辛いだろう、という考えから、その選択をするとのこと。
ただ、この意見が私は少々ネガティブすぎるのではないかと思った。身長が伸びなくとも結婚や出産をする方々はいるし、例えば車椅子生活だったとしても、今ではパラリンピックのような競技や世界も存在する。
だからそれらが必ずしもネガティブなものにはなり得ない、確かに幼少の頃は辛い思いをするかもしれないけれど、大人になったらほとんどの人はそんな自分を受け入れられるようになっているように見える。
そう話をすると、その人は「それは君みたいにポジティブだったらできるかもしれないけれど、全員が全員ポジティブなわけではないと思う」と返してきた。
それから、私の継承論的な話にも反論してきた。
「別に、人間が存続するかどうかはどうでもいい」それがその人の意見だった。
実は、このブログの本題はここにあると思っている。
私はこれまで、意識的にか無意識的にかはわからないが、人間は存続するためにあるものだと思ってきた。
だから、子どもを育まない(実際には私は男性なので、パートナーに辛い思いをさせて育んでいただく立場なのだが)選択をする人の価値観が、あまりよくわからなかった。
子孫繁栄は本能的な部分で、他の生物はわざわざ考えて子どもを産もう、などとは考えていないと思う。
しかし人間には本能を制御する能力があり、かつ多様性が認められる時代になったことも背景にあり、繁栄を選択しない人もいる。こと日本においては、経済的に子どもを育てるのが難しい、という理由からその選択をしたくてもできない人がいる、というのも理解はしている。
あとは、正直なところ資本主義化が進みすぎた、インフルエンサー化に躍起になりすぎている、というのも要因にあると思う。(要因、と言うとどこか悪いもののように聞こえてしまうが、全くそのつもりはない)
ビジネスで成功して歴史に名を残す、カリスマ的存在になりたい、そういうキラキラした何かになろうとしている人は、特に今の時代は割合的にも増えてきていると思う。(肌感だが)
ただ、私が否定していたこの考え方も「人間は存続すべき」という固定観念からのものだったということがわかり、そしてあの人の「別に人間が存続するかどうかはどうでもいい」発言で、この考え方はゲシュタルト崩壊した。
「なぜ人間は存続すべきか」に対する絶対的に納得する答えは、おそらく世の中に用意されていない。あるいは存在すらしない。
ただ、答えがあるとしたらこうだと思う。
我々の人生、あるいはあらゆる生命体が存続できる期間、もしくは地球が銀河が存在し得る限り、私たち人間の物語はどこかで受け継がれていく。
そして、その受け継がれ方にはおそらく2通りある。
1つは遺伝的なもの。そしてもう一つは、ビジネスや文化などのイズム。
つまり、私たちは確かにあの時代に存在したんだ、ということが後世になってもわかるように生きていたい、というエゴのために存在しているのではないか、と私は結論づけた。
あなたは何のために生きる?
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