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本音が言えなくなったSNS - 綺麗事か炎上か

最近、某インフルエンサーの某女性芸人への発言や、フリー女子アナの失言問題など、本音だったり真相のわからない発言だったりが炎上するシーンをよく目にします。

これらの背景には、現代SNSにおける「晒し文化」の深刻さが影響を及ぼしていると密かに感じています。

日本社会では、長らく「一つのミス」が個人のキャリアや社会的地位に大きな影響を与える文化が根付いていますが、SNSの台頭とともに、その傾向が加速し、新たな問題を引き起こしているような気がしています。

SNSの「晒し文化」の台頭:ガーシー、滝沢ガレソの出現

SNSの普及により、お得な情報や誰かにメリットのある情報、災害情報や地震速報など価値のある情報が拡散されています。ただ、その反面で言葉一つや行動の一挙手一投足も瞬時に拡散される時代になりました。

それが顕著になったと感じるのは、ガーシーや滝沢ガレソが影響力を持ち始めてからだと感じています。SNSを利用した有名人や公人のプライベートや暗黙を暴露することで注目を集め、それがSNSの「晒し文化」や「吊し上げ文化」の加速を助長した気がします。

ノイジーマイノリティの声が過剰に届くSNS

彼らのような、SNS上での「監視者」としての役割を果たすノイジーマイノリティ、つまり「少数の声高な批判者」がさらに影響力を持ち始めているなという所感が、私にはあります。

この「過剰反応者」は、些細な問題を過度に誇張し批判の矛先を向けることで、ステージに立つ人々を引きずり下ろす快感を得ているのではないかと思っています。

正直言って、冒頭に書いたような内容ってどうでも良くないですか?どうでも良いというのは、つまりこれに触れたことで自分の人生に何ら影響はないということです。

それにもかかわらず、結果的に活動自粛に至ったり、事務所との契約解除に至ったりしているわけです。非常に不思議だなと。個人間やステークホルダー内だけで完結すべき事象に、外部の人間が入ってその声が採用されているような感覚です。

炎上や晒し、吊し上げ行為は政府・警察への不満?

しかし、彼らは別にそれを楽しんでやり始めたのではないと私は思います。例えば、観光立国となった日本で頻繁に起きているのは、外国人によるルールや暗黙の了解度外視な行為があります。

そもそも、これを政府や警察、企業などルールを整備する側や管理する側が適切な対処をしていれば、二の矢三の矢と矢継ぎ早に炎上することはないはずです。

つまり、近年台頭してきているSNSの監視文化や晒し文化は、日本社会全体に対する信用や信頼が揺らいでいることを暗に意味している気がします。

・なぜあの行為を取り締まらない?
・なぜ日本人に危害を加えた外国人が釈放されている?
・悪質な体制を続ける企業が、なぜ今も残っている?
・裏金問題に適当に決着をつけているのに、どうして税金を納めなければならない?

まさに「WHY JAPANESE PEOPLE ?!」状態。
ルールを守っている側がバカをみるこの社会に、きっと嫌気がさしている。

それを少し履き違えた形で世の中に出ているのが、冒頭に書いたような内容だと思います。つまりは、矛先が違うということ。戦う相手を間違えているということです。

「関心の輪、影響の輪」

途中にも少し触れましたが、私がこの記事を通して読者の皆さんに問いかけたいのは「このような現象に関わることで、あなたの実生活は本当に変わるのでしょうか?」ということです。

スティーブン・R・コヴィーの著書『7つの習慣』では、「関心の輪」と「影響の輪」という概念が紹介されています。私たちは、多くのことに関心を持つことができますが、それが必ずしも私たちに影響を与えるわけではありません。

・関心の輪は、自分では変えられないこと
・影響の輪は、自分で変えられること
を差しています。

現代SNSの吊し上げ文化に過度に反応することは、実生活にほとんど影響を与えない、そして無駄なエネルギー消費に過ぎないのではないでしょうか。

それよりも、私たちが本当に影響を与えることができる分野に集中し、自分自身や周りの人、さらには社会全体を前向きに変えるために何をすべきかを考えることが重要だと思います。

SNSで本音を言うべきかどうか

SNS創成期では、いわゆる裏垢を作るなどして本音を簡単に言える場だったはずなのですが、現代SNSではこれは命取り。特に、一回のミスが大きくその後の人生を左右する日本社会では。

SNSは、綺麗事しか言えない場所になってしまったと感じます。じゃないと、言葉の端々を指摘して、鬼の首を取ったかのように吊し上げられます。そして鬼ごっこのように、そのストレスを受けた人が、今度は違う人を攻撃し、それは理論上二次曲線的に増えていきます。

こんなことをして、誰にメリットがありますか?
結局、こういうシーンを見ていると、私がずっと研究実践してきたEQ、非認知能力の欠如に至るな〜と感じます。

結び

私自身は、わざわざネガティブなコメントをしたくないし、見たくない派です。じゃあどこでそれを発散すればいいの?という人もいるかもしれませんが、そのために趣味という存在があるんだと思います。

ストレスを感じている=趣味に時間が充てられていない
こう考えても、私はいいと思っています。

趣味に時間を当てれば、ストレスは解消されるし、その物事は上達する。今ではそれが副業になるなることだってあり得ないことはありません。

他人のため社会のためを、一人一人が考えて実行すれば、こんな世のかなにはならないと思うんだけどな、と思ってます。これは綺麗事ですが、本音です。

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