本当
※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURck5UVVhhN1dDdEU
「イイダくん、今のわたしたちのバンド、全然好きじゃないでしょう」
「え」
デミオの前を、老人の集団がゆっくりと横切っていく。介護士らしき若い女が、手を振り回して老人たちを急かしていた。
すべてがスローモーションだった。
助手席のクドウさんの顔からは、何も読み取れない。
「好きじゃないって、どういう意味ですか」
「いや、そのままの意味だよ」
介護士が一度列を断ち切ろうとするのを無視して、髪の毛を逆立てた老人が通り過ぎていった。介護士はこちらに向かってペコペコ頭を下げる。
カーステレオからは、もう十数年前に解散してしまったバンドの古い曲が、うっすらとした音量でかかっていた。一曲の中で曲調が目まぐるしく変わる。まるで分裂病患者みたいな曲だ。
ほんとのこと 知りたいだけなのに
夏休みは もう終わり
曲が終わると、後ろに積んでいる機材がガタガタと音を出して揺れる音だけが聞こえた。
「顔見てたらわかるよ。ていうか最近のイイダくんの目、完全に死んでるよ。魚みたいだよ」
狭い坂道の上、対向車が次々来る住宅街なので、なかなか進まない。あからさまにこちらを睨んでくる車も少なくない。クラウンやシーマが相手ならまだしも、軽乗用車に乗った若い女も、普段すれ違うときには見せないのであろう鋭い目つきをこちらに向ける。この道を通るときはいつも気分が沈む。
「昔は死んでませんでしたか?」
うん、昔はね、とクドウさんは煙草に火を点けながら言った。
「イイダくん、これは決して君のこと非難しているわけじゃないからね」
「非難じゃなかったらなんなのでしょう」
クドウさんの口から煙が立ち上がって、デミオの天井に溶ける。
「みんなわかってるから。あんなの最悪の音楽だよ」
ふふふ、とクドウさんは笑った。
「このままどっか行っちゃおうか」
ははは、と僕は笑う。
「それ言う人って、絶対どっか行っちゃわないんですよね」
「おお、生意気だね」
クドウさんは僕に選択肢を預けているだけだ。
「はーあ」
何やってんだろうな、というクドウさんのつぶやきをかき消すように、バイパスの喧騒が窓から流れ込んできた。
鼻の頭を掻いたとき、指先からクドウさんの中身の匂いがした。口の中が粘つく。
僕もスピードを上げる。
たくさんの客が来た。CDやステッカーも、開演前に随分捌けてしまった。
「まあ地元のライブハウスだからこんなもんでしょう」と、レコード会社から来ているスタッフが言った。「東名阪でどれくらい呼べるかだね」
ステージが暗転したのを確認して、僕はライブハウスの外に出た。短く繰り返されるギターのリフが聞こえる。終演後まで、僕は何もすることがない。
ライブハウスの裏手に停めたデミオの中で煙草を吸う。窓を開けると、ライブハウスの中の演奏がくぐもって聞こえた。
例えばこういうときに、隣国のミサイルが落ちてきたら、この箱の中にいる人々は熱狂のうちに死んでしまうのだろうか。誰もアラートに気づかず、ミサイルが近づいてくるのにも気づかず、ビッグマフと着弾の音の聞き分けもつかず、脳も骨も溶けてなくなってしまうのだろうか。
ライブハウスから漏れる音に対抗するように大きな声で叫びながら通り過ぎる若者の集団があった。その中の一人がデミオの中の僕に気づいて、「見てる人いるよ」と言って笑う。
別にこの箱の中にいなかったとしても、みんなそんなものかもしれない。
クドウさんの歌っている声が聴こえる。何て言っているのかは聞き取れない。
どこかから風呂の匂いがした。ボディソープかシャンプーの甘い匂いだ。近くの銭湯かアパートだろう。
「イイダくんはきっと、大物になるよ」とクドウさんはよく言った。
根拠はあるのか、と聞くと、うーんなんとなく、とか、まだ若いし色々できるじゃん、とか、毎回色々言うのだった。
昨日は、「言霊だよ」と言った。
「言っているうちに本当になるってやつ、あるじゃん」
「そういうのって、自分にかけるものじゃないですか」
「じゃあ呪いでもいいよ。大物になる呪い」
ははは、と笑って、クドウさんは食べ終えたデリバリー・ピザの箱の端に吸い殻を押し付けた。
「イイダくんは、どんな大物になりたいですか?」
「だから、別に大物になりたくないです」
「本当に?そんなに不満そうな顔してるのに?」
大物になって、世の中を自分の思い通りにしたいからそんな顔してるんじゃないの?こんな世の中おかしいって思ってるんじゃないの?
「わたしはイイダくんが神様か総理大臣になったら、きっと世の中はもっと丸くなると思うな。みんなが、無闇に隣人と手を繋いだりはしないで、ちゃんと良い距離感で、自分の正しさをおっかなびっくり疑いながら生きていくの」
クドウさんはいつも、僕がいきそうになると、最後に首を絞めてほしいとせがんだ。それまでか細い声で鳴いていたクドウさんの声が遠ざかって、衣擦れの音だけが聞こえる。クドウさんだけじゃなくて、僕もどこか遠い場所に行ってしまって、そこに二人の影と音だけが残っているみたいだった。
ふと我に返って手を離すと、クドウさんはいつもしばらく目をつむったまま静かにしていて、やがて「死んだかと思った?」と言って少し笑うのだった。
「頭の中がからっぽになるのって、この瞬間だけなんだよね」
イイダくんがリセットするの。わかる?
「でも、今日はちょっと強すぎでした」
こんこん、というノックの音で目を覚ます。
「ライブ、終わったよ」
ギターのワタライさんだった。僕は車を降りて、バンドの機材をデミオに積んでいく。
「すみません」
「いや、いいよ。ボランティアみたいな値段でやってもらってるし」
印税たんまり入ったら、焼肉おごってあげるね、と言ってワタライさんは笑った。
ワタライさんはもう大人だ。どうやって生きればワタライさんみたいな人間になるのだろう、といつも僕は思うのだった。
「あのさ、イイダくんさ、クドウとなんかあったの?」
「何かって何ですか?」
ワタライさんの長い髪の毛が、風に揺れている。瞼を伏せて、指先の煙草を見つめていた。
「別に、何でも良いんだよ。俺とクドウはただ一緒にバンドやってるだけだから」
ただ俺は、ほんとうのことが知りたいだけ。嘘つかれたり何か隠されたりするのが嫌なだけだよ。クドウとバンドやっていくにあたって。あと、イイダくんのことも大事な仲間だと思ってるよ。
ワタライさんは、他のメンバーとともにレコード会社のスタッフが運転する車に乗って去っていった。打ち上げにいくらしい。車の中に、クドウさんはいなかった。
「機材とクドウ、よろしくね」
そう言って、ワタライさんは長い髪をなびかせて去っていった。
クドウさんは、バックステージにもフロアにもいなかった。
ライブハウスに残っていたスタッフに聞くと、フロア側の扉から出て行ったらしい。
クドウさんを探しながら、ワタライさんの言った「ほんとうのことが知りたいだけ」という言葉を反芻していた。
僕もほんとうのことが知りたいな、と思った。
ライブハウスに通ったり、自分で曲を作ってライブしてみると、答えが幾つもあって困る。結局自分だけを信じているしかない。ではほんとうのことが自分の中にあるかというとそうではないような気がした。
クドウさんの首を絞めながら、僕はどんな顔をして、何を考えているんだろう?
クドウさんがライブをやっている間、ハンドルの上で夢を見ていた。
ライブ中にミサイルが落ちてきて、何もかもめちゃくちゃになってしまう。
どこかから抜け出してきたクドウさんは、「不謹慎だけど」と言いながら喜んでいる。僕も喜んでいる。街がめちゃくちゃになってリセットされたことにワクワクしている。これからどんな不吉なことが待っているのか、全く予想もつかないのだけど、僕たちはとにかくそこがゼロになったことを喜んでいる。
ライブハウスの方に戻ってみると、クドウさんはデミオに寄りかかって煙草を吸っていた。クドウさんは黙って僕に缶コーヒーを渡した。アイスなのかホットなのか曖昧な温度だった。
車がバイパスを通り過ぎると、クドウさんが話し始めた。
「今日見てなかったでしょ、ライブ」
そういうのもちゃんと知ってるよ、とクドウさんは言った。イイダくんいないな、と思ったからいつもより一生懸命歌ったよ。頭空っぽにして。
「イイダくんがいない方がちゃんと歌えたよ」
きっとわたしの中に、イイダくんに何か後ろめたい気持ちがあるんだろうね。ほんとうのことを知りたいっていつも歌ってるのに。
そんなことを歌っているんだ、今のクドウさんは、と思いつつ、僕はクドウさんの首を絞めているときのことを考えていた。クドウさんの頭の中を真っ白にする。風景も色も戻ってこないくらい真っ白に。すると同時に、首を絞めているはずの僕もクドウさんから彼方遠く離れたところに消えてしまう。
こんなことを続けていて、いつかどこかにたどり着くことがあるのだろうか、と僕は思った。
「バンドは、騙し騙し続けていくのが一番辛いよね」と、クドウさんが独り言のように言った。
坂道の前の小さな感知式信号で、車は停まる。深夜なので、車の通りはない。
もう、こういうのやめた方がいいのかもしれませんね、と口に出しかけた瞬間に、音もなくクドウさんの青白い手が伸びてきて、きゅっと僕の首を絞めた。
頭の中が真っ白になる。
信号が青に変わって点滅した。
クドウさんは、泣きそうな表情でまっすぐに僕を見ていた。
やがて、ゆっくりとクドウさんが手の力が緩んでいく。
僕は黙って車を発進させる。すぐにクドウさんの家の前に着いた。
「降りないんですか?」
クドウさんはまっすぐに僕を見ていた。
「どっか行っちゃおうよ」
「どっかって、どこに?」
「高速乗ってよ。わたし、サービスエリアで肉うどん食べたいわ」
「家に冷凍のうどんありましたよ」
「冷凍のやつじゃなくて。ほんとのやつがいいの」
「サービスエリアのだって、多分冷凍ですよ」
「いいから」
「いいんだ」
デミオは滑るように坂道を下って行く。バイパスの明かりと、その先の暗い谷を目指して、車は走って行った。
※本短編は、イラストレーターの中野友絵さんのツイートから着想を得て制作しました。中野さんのツイート内の「漫画」と本短編は関係ございません。使用許可をいただいたのみです。
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