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 小さな雑誌社でアルバイトをしていた頃、インタビューや講演のテープ起こしをたくさんやった。まだカセットテープの時代だった。時給ではなく、テープ一本いくら、というようなお金の払い方で、僕にとっては楽で割が良かった。広告だらけの地域情報誌を作って出来たお金で、少し変わった雑誌を作る小さな会社だった。
 その中でもひときわ変わっていたのが、「書記」という仕事を務める人々のインタビュー特集だった。
 その雑誌社がどうしてそんな特集を組むことになったのか、そしてどんな人々がそれを読むと想定していたのかはわからない。僕はとにかく「テープ起こししといて」と言われて、それを遂行するだけの立場だったのだ。実際にテープを聞き始めるまでは、僕自身も何故そんなものを作る必要があるのかと疑問に思っていた。ところがテープを聞き始めてみると、それらの人々の話に結構夢中になってしまった。そこには何か、神秘性すら感じるものがあった。
 ここに、その時に僕が起こしたテープを基にして書かれた雑誌の記事と、その頃に書いていた日記を基にしたことを記述する。
 テープ起こしをしながら、僕は奇妙としか言いようのない体験をしている。
 しかしそれは、隅々まで掃除し終わった後に見つけた一筋の水垢のような、取るに足らない体験だ。僕は誰にもその話をしなかった。
 今、こうして物を書く仕事をさせてもらっているので、書いておこうと思う。少なからず、僕が「小説を書く」という行為に影響を残しているに違いないと思えるからだ。

「書記」という仕事にプライドを持っている人は、存外に多い。
「大げさに聞こえるかもしれませんが、私が書いたことが歴史になるわけですから」と、明治初期に開学した国立大学の男性事務職員は言った。
「議事録というのは、すぐに必要になるものではありません。本学では議事録を採った後中身を学長や事務局長にチェックしてもらい、判子を押してもらう仕組みになっていますが、赤字修正などを入れて返されたことなどはありません」男性職員の声は低く、落ち着いていた。男性の声以外は何も入っていない。ふつふつとノイズの音が聞こえるだけで、編集者の声も聞こえない不思議なインタビューだった。まるで地下室の壁に話しかけているような静けさだ。
「読まれているかどうかわからないからと言って、それ自体は悲しいことでも何でもありません。時に数ページにわたることもありますから。そんなものだよなと思います。ただ、だからこそ、私のようなものが責任を持って、きっちりとした正確性を以て議事録を書く必要があるのです」
 少し間。と、衣擦れの音。僕は、その男性職員が背筋を伸ばすところを想像する。
「そうですね。だからちょっと怖いような気もします。基本的に未来で議事録を見る時というのは、それが本当だったかどうかということを実証するためではないですから。あくまで、その時どんなことがあったのか振り返るためのものです。だからその信頼性そのものについて疑うような人は、基本的にはいない。そう考えてみると、歴史というのはリアルタイムで作られるのではなくて、振り返ってみた時に立ち上がってくるものなのかもしれません」
 かちゃり、と音がしてテープのA面が終わった。

「議事録がちゃんと読まれるのは、まあ早く見積もって一年後、遅ければ五年や十年あとになってから、というのはざらです。もちろん、ほとんどのものは一度も読まれずに地下の保管所にしまいこまれてしまう」と、大学職員の男性と同じようなことを、とある大きな総合病院の事務職員も言っている。入院する患者たちの治療方針を話し合う会議について話しているらしい。
「我々がいるのは命を取り扱う場所です。だからこそ正直に言えば、医師が話す内容をそのまま書き出したら、倫理性を問われてしまうようなものもあります。言葉尻を捕まえれば、誰かの人生を恣意的に左右しようとしたり、あるいは生命の重さを比較したり。そういう風にしか聞こえないものもあります。でもそれは必要なことでもあるわけです。人々を治癒するということも我々の使命ですが、同時に今後の医療を、ひいてはそれに伴う生命観や倫理を決定することにもなる可能性があるわけですから」
 不思議なことに、総合病院の事務職員も、大学の事務職員も、どこか声質がよく似ていた。地面を這うような、バリトン声。大学職員のインタビューを聞き終わってすぐに病院職員のインタビューのテープを再生したとき、同一人物の話が続いているのかと思ったくらいだった。それが別人のものだとわかったのは、先ほどの静寂と打って変わって後ろで物音が聞こえているからだった。
「私の場合は、可能な限りその場で話された内容がそのまま伝わるように書きます。それは口から出た言葉のまま書き起こすということとはイコールにはなりません。その議が何を決めるものだったのか、何を問うものだったのかを意識しながら書記します。議会が荒れたり横道から逸れているように見えたとしても、ほとんどの場合そこで何が話されたのかということはシンプルにまとめられるものです。私もしばらく書記を勤めてわかるようになったことですが」
 何か近くで金属が擦れ合う音と、車が出入りするエンジン音が聞こえる。やはり編集者の声は聞こえない。
「ええ、ええ。そういうわけにはいきませんよね。どう頑張ってみても、私自身から離れることはできないというか。何だかただ書記をやっていますというだけの人間が作家のようなことを言うのもおかしな話ですが、どれだけ書き漏らすまいとしても、全てのことをありのまま書くなんていうことは不可能だと、私個人は思っています」

「こういう小さな何の特徴もないような私設の図書館でも、印刷した過去一年分の議事録をこうして一まとめにするとそれなりの厚さになるんですよね」
 それまでとは打って変わって、少々軽薄にも聞こえる若い女性の声だった。こんなものでもまあ、歴史、ですよね。とその女性司書は言う。
「うちはほんとに小さな組織ですから。一般企業から見たら、道楽と思われるような会議の内容です。今月の予算がドン、これくらいです。どんな本を入れる?どんなイベントをやる?誰がどれくらい利用しているかなんかもデータで測りますけど、それよりも『最近子どもが少ないよね』とか、『何だか年度末って自己啓発本がよく借りられるね』とか、そういう肌感覚的なものが話題に上がることが多いです。ほら、例えばこの議事録。『どうして六月はレシピ本の利用率が高いのか』」
この女性は、どうやら実際の議事録を見せてくれているらしい。ぺらぺらと紙をめくる音だけが聞こえた。
「でも、こういうのが大事だと思っています。多分もっと大きくて業務が多岐にわたる会社は、もっと会議も多くなるでしょう。代表会議、課内会議、広報戦略会議、とか。そうなると全部ファイルがばらばらになりますよね。うちみたいなのだと、こうやって一冊にまとめられる。私はこうして一冊になっていくことに、結構やりがいを感じているかもしれませんね。もちろん会議の大きな流れも記録しますけど、ふとした話題であるなぜかあの日おばあさんがとても多かったとか、この作家の本は利用率が高いけど新品みたいにまっさらねとか、こういう細部の話もちゃんとさらっておくことで、この図書館がどっちを向いて航路を立てるのかということが明確になって見えているような気がします」
 ニュアンスの違いはあれど、一見軽薄な声の女も大学職員や病院職員と同じことを言っている、と僕は思った。歴史。何をどうまとめるのか。
「私以外の人間が、同じ会議の書記をやることになったら-----どうなんでしょう。わからないです。同じ物とも言えるでしょうし、全く違う物とも言えるでしょうね。そんなこと考えたこともなかったです。それを思うと、何だか不思議な感じがしてきますね」

「ぼ、僕はもう、じ、自分のためだと割り切って、やっています」
 高い声で、男はそう言った。
「ぼ、僕は、あ、頭が良くないので。会議の時に誰かが話すのを聞いていても、ま、全く理解できないことがあります。全然、ち、違うことを考えてしまうことも。わかるのは、ば、漠然とした空気感だけです。ああ、今日はなんかピリピリしてるのかなとか、みんなが笑ってるから、ぼ、僕も笑っておこうとか。だから、僕は人が喋っているのを聞いたままどんどんタイピングしていくだけ。そしてそれを後で読み返してみて、よ、ようやく理解することができます。あ、あの時言ってたのはこういう意味だったのか、とか。それでようやく自分の意見みたいなものが出てくるんです。そ、そんなの、も、もう遅いんですが」
 その声は冒頭で、三十歳、マスコミ関係の仕事をしています、と言った。
「だ、だから僕にとっての議事録というのは、あくまで自分の思考をより、し、深化させる方法なんです。頭が悪いから、すぐに、考えられない。だからこうやって全部を、き、記録して、後から、自分でも考えて、みるんです」
 沈黙。
「た、タイピングには、自信があります。考えるよりも先に指が動きます。て、手の甲に脳みそがあって、そっちが僕の本体なんじゃないかって思うくらい。し、しかも、ワープロは、まだ僕しか持っていないんです」
 ふたたび、長い沈黙。
「そ、そうですね。ぷ、プライドがあります。だ、誰よりも正確に記録しているというプライド。ぼ、僕は意見を入れ込みようが、な、ないので。そのうち、ろ、ロボットに仕事を奪われてしまうかもしれませんがね」
 彼のははははっと短く笑う声がして、テープは切れた。

 僕は彼の吃音も正確にタイプして、原稿を作った。
 僕もまさに、彼と同じタイプで、まずは徹底的に正確に録音を文字起こしすることしか考えない。とにかく耳から聞こえてくるものを、丸ごとそのまま指から出力していく、という感じだ。
 しかし、二本のテープの両面を書き起こした後、吃音を持つ彼の声の箇所を読み直しながら、少し迷いが生じた。
 彼の吃音をタイプするのなら、それまでのインタビュイーたちの言い間違いや、逡巡したことによる言い淀みなども、きちんと記録しておくべきだったのではないか?

 もう一度巻き戻して、テープを聞き直してみた。
「-----だからちょっと怖いような気もします。基本的に未来で議事録を見る時というのは、それが本当だったかどうかということを実証するためではないですから。あくまで、その時どんなことがあったのか振り返るためのものです。だからその信頼性そのものについて疑うような人は、基本的にはいない。そう考えてみると、歴史というのはリアルタイムで作られるのではなくて、振り返ってみた時に立ち上がってくるものなのかもしれません」
 低いバリトンボイスが聞こえて来る。大学職員のインタビューだ。
「-----いえいえ、そんなことはありませんよ。もちろん、想像したことはあります。もしここにでたらめを書いたらどうなるだろう?決裂した議論をあたかも全会一致で決まったかのように書いておくとか。あるいはもっと荒唐無稽なことを書くとか」
 僕は原稿をスクロールして、自分の起こした原稿を見直してみる。
 一時停止をしないまま原稿を読み直していると、いつの間にかテープが裏返って、イヤホンからかちゃかちゃと金属音が聞こえてきた。
「我々がいるのは命を取り扱う場所です。だからこそ正直に言えば、医師が話す内容をそのまま書き出したら、倫理性を問われてしまうようなものもあります」
 さっきは聞こえていなかった-----聞き逃していた?-----小さく水の流れる音が聞こえた。金属音と合わせると、皿を洗っている音にも聞こえる。
「-----どれだけ書き漏らすまいとしても、全てのことをありのまま書くなんていうことは不可能だと、私個人は思っています」
 明らかに蛇口をひねって水を止める音が聞こえた。金属の音も鳴り止み、静寂が訪れる。
「そうですね、そういうこともあるかもしれません。一度、窓に鳩がぶつかったことがあるんです。忘れもしません、ターミナルケア病棟の報告を聞いている時でした。どかん、という音がしたので、私がブラインドを上げると、窓ガラスにべっとりとした油の跡と小さな羽がついていたんです。窓を開けて下を見ると、鳩が死んでいるのがわかりました。私は内線電話でステーションに連絡して、中庭に鳩が死んでいるから片付けてくれ、と連絡したんです。誰も鳩がぶつかったことになんて目もくれず、報告が続きました。明らかに鳩は死んでいるのに」
 僕はそこで確信した。絶対にさっき聞いたテープには、こんな話は入っていなかったはずだ。
「私は一瞬逡巡しました。今、鳩が窓にぶつかったことを、議事録に残しておくべきだろうか?実際にタイプしてみた覚えがあります。『その時、鳩が窓に体当たりした』。体当たり?鳩はわざと窓にぶつかったのか?『鳩が窓につっこんだ』の方が正しいか?そうして悩んでいる間にも、もちろん報告が為されていました。ええ、そうです。もちろん、死んだ鳩のことなんて書かなかった。あえて書き漏らしたんです」
 その時代のカセットテープは、今みたいにシークバーがついていたりするわけじゃなかったから、行きつ戻りつしながらテープ起こしをする場合に、特定の箇所を聞き漏らしてしまうようなことはあるかもしれなかった。それでも、こんなに何か示唆的な箇所を聞き流してしまうようなことがあるだろうか?
 僕はもう一本のテープを聴いてみる。図書館の司書と、吃音の男のテープだ。
「こういう細部の話もちゃんとさらっておくことで、この図書館がどっちを向いて航路を立てるのかということが明確になって見えているような気がします」
 紙をめくる音。
「私以外の人間が、同じ会議の書記をやることになったら-----それは全く違うものでしょうね。もしかすると、この図書館の向かう先だって、結構変わってくるかもしれません。どんな本を入れるのかって、結構繊細な問題ですから」
 やはり僕が先ほど書き起こしたものとは微妙に違う内容が聞こえてきた。
「そう言われれば、私は、私が思っているよりもずっと強い力みたいなものを持っているのかもしれませんね。みんな、俺はこんなこと言ったっけ?って私の議事録を読むたびに言ってますから。誰も自分が言ったことなんて覚えていないんです。そう思うと、多少私が恣意的に何か書き加えたり書き漏らしたりしたとしても、私がきちんとその恣意性に対する責任みたいなものを負うのであれば、自分のした発言を覚えていないのよりはよっぽどましだと思いませんか?」
 テープが、かちゃり、と音を立てて入れ替わった。
「僕はもう、自分のためだと割り切ってやっています」
 吃音だったはずの男の話は、さっきまでと違うリズムだった。
「僕にとっての議事録というのは、あくまで自分の思考をより深化させる方法なんです。頭が悪いから、すぐに考えられない。だからこうやって全部を記録して、後から自分でも考えてみるんです」
 少しの沈黙があった後、はははは、とさっきと同じ短い笑い声が聞こえた。
「わかりますよ。あなたの想像していることが。それはどんな些細なことだとしても、事実と異なることを書くのは、私たちにとって蜜の味です。仮に僕にとって何か気に食わないようなことがその会議で持ち上がったりしたら、そうすることもあるかもしれません。わからないように、微妙にニュアンスを変えるとか。誰かの発言を、微妙に差別的な発言にしたり、きちんと議論したことをすっ飛ばして突然過激な法案を採択したように見せたり。ふふ。でも、正確性なんていうものを確実に担保するのは無理なんですよ。諦めるしかない」
 諦めるしかないんですよ。と男はもう一度言ってまた短く笑った。
「それでもやるしかないんです」

 僕は、一回目に書き起こした原稿を、そのまま編集者に渡した。
「ありがとう。君は仕事が早くて本当に助かるよ」
 彼はそう言って、僕にお金の入った茶封筒を手渡した。彼は一晩中編集作業に追われて、眠っていないということだった。青白い、不健康そうな手で僕と軽く握手した。冷たい手だった。
 領収書にサインしながら、僕は彼に訊ねた。
「どうしてこんな特集を?」
 彼はにやりと笑って言った。
「一種のドキュメンタリーさ」

 その言葉の意味を、僕は今も図りかねている。ともかく、僕の書き起こしたテープを基に雑誌は作られた。そこには鳩の話はなかったし、吃音の男がいた。雑誌がどれくらいの人に読まれ、どれくらい受け入れられたのか想像もできない。
 僕は何かに巻き込まれたのだろうか?ともかく今は、最初からありもしなかったことを書いて、それでお金をもらって暮らしている。

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