テキストヘッダ

点と線

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURR0g5WTNBVGhfSDQ

 雨ざらしになっている、もう使われていないバス停のポールの辺りから、何やらもやのようなものが立ち上っているなあと思って目を凝らしてみると、それはもう七年も前に死んでしまった妹だった。
「てんちゃん」
 生前の呼び名で呼ぶと、妹は私の方にまっすぐ向き直った。

「名付けの順番を間違った」と、生前の妹を抱えながら母親がよく言っていた。
「あなたに点、という名前を先につけておけばよかった。それで、この子に線という名前を付けるの」
 私をお腹に宿すにあたって、母親は相当苦労したらしい。だから、まさか二人目を身ごもるなんて思ってもいなかったという。
「やっぱり、先に点があって、それを線で結んでいくべきでしょう」

 線と点という名前は、おそらく建築の仕事をしていた父親によるものだろう。直接聞いたことはないが、勝手にそう思っている。父親は母親が妹を身ごもった後、妹の顔を見る前に電車に轢かれて死んだ。家にはずっと父親が使っていたという図面台があって、それは机にしては大げさだし使いにくいものなのだけど、斜めにも出来る面をフラットにして、今は私の勉強机にしていた。

「せんちゃん、お母さん元気?」
「元気だよ」
 このバス停はもう誰も使わない。この辺りは、小さな田んぼが幾つか続いているだけで、あとは雑木林しかない。乗車してくる人数が少なすぎて路線を外されてしまってから、ポールだけが忘れられたように残っている。結構不気味な場所で、夜になると不法投棄されたテレビの電源が映るという噂話があったりする。だから幽霊が出るくらいのことはあるのかもしれない。
「あの人病気しないんだよ。私なんかよりもずっと元気だよ」
 妹は生前気に入っていた水玉模様のワンピースを着ている。妹の足元で、コンクリートの隙間から無理やり生えた蒲公英が、妹の身体を通り抜けた雨に濡れていた。
「お姉ちゃん、相変わらずだね」
 妹はそう言って笑う。七年も前から、私はこうして憎まれ口を叩いていたということだろうか?

 母親曰く、私の性格は父に似ているらしい。気難しくて偏屈。幼い私が色鉛筆を持ったまま腕を組み、眉間に皺を寄せている写真が残っていて、母親はことあるごとにそれを出してきてケラケラ笑う。
「悩んでいる姿が、図面引いてるお父さんにそっくりだわ」
 私の幼い頃の落書き帳は、白い紙の端にちょいちょいと色が塗られているだけで、ちっとも面白くなかった。一方てんちゃんの落書き帳は、どのページにも描くというより抉るに近い力強さでぐるぐるとダイナミックな線が描かれている。後ろのページに跡が付くくらい。
 私は今でも、白紙の紙を見るとそれを思い出して何も書けなくなる。絶望するくらい何も浮かんでこない。

 母親が病気をしない人だというのは本当だ。でも母親の元気印が全部妹に行ったかというとそうではない。妹は生まれたときから身体が弱かった。でも、苦しそうに咳をしたり、赤い顔でぼんやりしていた次の瞬間にはもう笑っていた。
「点はよく笑っていた、よく笑ってから死んだ。一生分笑って死んだのよ」
 時々私には、母の明るさがただただ浅はかに思えることがある。そうだねと同意したくても、どうしてもできないことがある。てんちゃんが本当に一生分笑って死んだとしたら、点ちゃんほど笑わないとは言え、それなりに生きながらえている私は、もうそろそろ笑わなくて良くなってしまうのではないだろうか。

 そんな風に思っている私をよそに、妹は濡れない便利な身体を雨の中に晒して、にこにこと笑っていた。
「あそこ、マンション建ったんだね」
 そう言って、てんちゃんは田んぼの向こうの、田舎に似つかわしくないタワーマンションを指差した。白くて細い、骨みたいな指だった。マンションは鳥避けなのか、何か鋭い光が明滅している。
「そうそう。あそこに住む子たちってなんか見た目でわかるんだよね。私立行く子多いし」
「そうなんだ」
 何が面白いのか、妹はまた声を出してふふふと笑った。
「何で出てきたの」と私が聞くと、妹はにやりとしながら「ちょっと帰って来たくなっただけ」と言うのだった。
 簡単に言うなあ、と私は思う。

 妹は、あちらの世界で父親と暮らしているらしい。
「顔も見たことなかったから、最初は信じられなかったの。でも、身振り手振りがほんとにせんちゃんにそっくりで」
 父親は妹が生まれる前に先立ったことを床に頭をこすりつけて謝ったという。涙を流し、てんちゃんのまだ小さくて細い身体を抱きしめながら、お母さんが寂しがるだろうなあと言ったのだと、父親の声色を真似ていると思しき調子で熱演した。今は妹を甘やかしまくって育てているらしい。やさしいよ、私たちのお父さん、とてんちゃんはいう。自分の家がないまま亡くなってしまった人たちに、家を作ってあげているのだという。あちらの世界にもそうやって仕事をしないといけない事情があるのだなあと頭の中で思っていると、妹はそれを見透かしたように「そんなことしなくてもいいんだけどね」と付け加えた。
 私には父親がそれほど優しかったという記憶はない。おぼろげに浮かぶのは、今は自分のものになっている図面台に座って腕を組み、難しい顔をしている父だ。それは記憶なのか、それとも母に植え付けられたイメージなのか定かではない。
 死後の世界でも、食後にすぐ寝転んだりすると怒られるのだろうか。食べた後の皿をすぐに片付けないと怒られるのだろうか。やさしい、という言葉を聞いても、そういうさもしい生活感に満ちたことしか想像できなくて、私は少し悲しくなる。私が作った料理を食べた後、すぐに寝転んでしまう母親の姿を思い浮かべたからだ。

 てんちゃんが死んだ後、母は私と二人だけになってしまって、途方に暮れた。明るかったてんちゃんを失った後の家で二人で暮らしていくのだというイメージがうまくできないままここまで来ている。父親が亡くなったときは、それほど落ち込まなかったのにね、と母親は自分で言って、それでも力なく笑うのだった。
 点が無くなって、私は行き場なく止め処なく流れていくだけの線になった。どんどん時間だけが流れて、線が間延びしていく。終わりはどこにあるのだろうか。
 もし本当に私の方が点という名前を与えられていたら、そこから何かが生まれてくることもあったかもしれないな、と思う。点さえあれば、線は誰でも引くことができるのだ。
 物心つく前に家族を失った私より、一人の人間として愛した人と、自分の半分で出来ている命を失くす目にあった母親の方が辛いだろうと思い込んだ私は、いつからか母親の人生をこれ以上邪魔しないように生きると決めていた。
 そんなことを母親が望んでいないと気づいたのは最近になってからだ。東京の大学に行くことに決めた、と告げると、母親は笑顔でそうか行って来い!と言ったあと、ついに私一人だね、と言って静かに泣いた。いつかそうなるとわかってはいたんだけどね、と言って涙をこぼすのだった。

「あの家、まだ住んでる?」
「住んでるよ。もう一生出られないんじゃないかって錯覚するくらい住んでるよ」
 私たちが住んでいるのは市営団地だった。父が死んだ後、家計が苦しくなって引っ越した家。私たちが住み始めたときにはもう色褪せていて、今もっと色褪せている団地。
「私はあの家好きだったけどな」と妹は言った。「いっぱい家が集まってて」
「今はもう住んでる人少ないんだよ。みんなどんどん引っ越しちゃうんだよ。ああいう家は、仮住まいなんだよ。昔から住んでるのはうちくらい」
 夜中、自分の部屋から窓を開けて中庭を覗き込むと、驚くほど部屋の明かりがまばらになっていることに気づく。団地のくすんだの街灯が、くすんだ建物を照らしている。
「そっかそっか」
 妹は、好きだったんだけどなあ、あの感じ、と呟きながら目を細めた。みんな出て行っちゃうもんなんだ。あんなにたくさん人がいたのにね。そういうものなんだ。
「でも、新しく来る人はいないの?」
「あんなぼろぼろの市営団地に、好んで新しくやってくる人はほとんどいないよ。戦後の団地のストック化って、結構問題になってんだよ。空き家だらけになってどうすんのって」
 そうなんだー、とてんちゃんは寂しそうに言った。
 私は思わず、あの部屋で一人団地と一緒に歳を取っていく母親の背中を思って胸が苦しくなる。
「川の上の方にある、水が湧いてくるところみたいなもんだ」と、てんちゃんは言った。
「そこから家族が生まれて、出て行くってことでしょう?養殖された魚が海に出て行くみたいじゃん」
「何それ」
 てんちゃんがあまりにも能天気なことを言うので、私は思わず少し気持ちが楽になってしまう。

 てんちゃんは、バス停の脇に出来上がった大きな水たまりの真ん中に飛び込んだ。てんちゃんが足をついても、水たまりは降ってくる雨を受ける同心円しか作らない。気にせず、てんちゃんは足元の水たまりを見つめていた。
「てんちゃん、昔から雨好きだったよね」
「そうだね。嫌いじゃないね」
 匂いとかじゃないかな、と言っててんちゃんは笑う。今はなんかもう全然わかんないけど。向こうって雨降らないんだよ。変だよね。懐かしい感じがする。
「お母さんが『てんちゃんが降ってるよ』って言ってたからじゃない?ゲラゲラ笑ってすごい喜んでたじゃん」
 どこからかの帰り道、三人で歩いている時ににわか雨に降られると、母親はてんちゃんが降ってきた!と言って走るのだった。逃げろ逃げろ。てんちゃんが降ってくるよ。身体が弱って歩けなくなっていたてんちゃんも、車椅子の上で雨を受け止めながら笑っていた覚えがある。
「違うよ。それ、せんちゃんだよ」と、妹は不思議そうな顔をして言った。
「お母さんが言ってたのは、線ちゃんが降ってくる、だよ」

「雨が止んだら帰っておいでって言われてたから、そろそろ帰るよ」と言って、てんちゃんは手を振った。まだ私の白く濁ったビニール傘の向こうでは、弱々しい雨が降り続けている。
「お母さんによろしくね」
 まばたきの間にてんちゃんの姿はなくなっていて、そこには水たまりがあるだけだった。さらりとしたものだった。水たまりを覗き込むと、覗き込んだ私の間抜けな顔と傘が波に揺られながら映った。

 家までの道、私は街灯から街灯へと渡っていく。等間隔で置かれた影を踏み越える。私の横をバスが通り越して行き、総菜屋の前で止まって乗客を吐き出した。
 妹に会って、父親と暮らしている話を聞いたことを、母親に言おうかどうか悩みながら、私は家路を辿った。信じてもらえないだろうか。母親が私に向かって言い出すならまだしも、普段真面目な私が言うのだからきっと信じるだろう。霧をまとった、大きな団地が見えてくる。

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