洗浄
※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURU2lCN3JfampHTlk
自分がじっとしていても、電車はどこかに自分を運んでくれるのだなあ、すごいなあ不思議だなあと思いながらぼんやり窓ガラスの向こうのビルを眺めていると、横に座った変な男に声をかけられた。
「イヤホンを片方、貸してくれないか」
うっすらと無精髭を生やした、やせぎすの男だった。僕を透かして、頭蓋骨の向こうの壁、もっと遠くを見ているような目をしていた。ため池の水みたいな深い緑色のTシャツから浅黒い腕が枝のように伸びて、それが僕のイヤホンを絡め取った。
「ラジオニュース?」
おい勘弁してくれよくだらない、と男は吐き捨てるように言った。
キャスターは、大相撲秋場所の模様について読み上げている。今場所は休場者が続出し、波乱の幕開けとなっております。巡業の長期化や力士の大型化など、根深い原因があるようです。
「まるでロボットの話みたいじゃないか」
彼は自分の耳からイヤホンをもぎ取って、僕の胸元に押し返した。ぶら下がったイヤホンの頭が、電車に揺れる。
「世の中はぐちゃぐちゃだ。空にはミサイルが飛んで、国会議事堂の周りにはデモのために怒れる人が集まってる。ニュースは殺しか有名人の不倫。そして働きすぎの力士たち。嫌になるだろ」
だから新しい祝日を作ったわけです、と男は言った。
今日だけはイヤホンを耳に挿している人に近づいて、かたいっぽを少しの間拝借してもいいのだ。
「あそこにいる子、ほら」
大学生くらいに見える、黒いロングヘアの女の子が、ドアの近くに立って窓の外を見ていた。
「あの子がどんな音楽を聴いていたら素敵だと思う?」
少なくとも、ラジオニュース以下のものはないと思うんだよな。
「そういうのは、どうなんでしょうか」
なんだかとても間違っているような気がした。
「なんだかとても間違っているような気がする顔をしているな」と男は言った。
みんな、少しでもその日の暮らしを豊かにするために音楽を聞いて日常にあらがっているのだと思ったら、こんなに美しいことはないじゃないか。俺は、お前みたいに、聴いている音楽で相手のことを値踏みしたりしないよ。
男はそう言って立ち上がると、女の子に近づいて膝を曲げ、少し話をした後にイヤホンを片方借りた。僕の時とは打って変わって、優しげな表情と聞き方で、女の子の方も快くイヤホンを貸しているように見えた。
男はイヤホンを挿したまま、大きくうんうんと頷いて何か言う。女の子は口に手を当てて笑っていた。女の子も何か言う。窓から入ってくる光が眩しかった。
電車は静かにビルの隙間を抜けて、ベッドタウンへと入っていった。平たい空が現れて、電線が網目のように広がっていた。右耳に入りっぱなしになっているイヤホンからニュースが流れ続けていたけれど、曇りのち雨、というワード以外は頭に入ってこなかった。
電車が停まると、女の子は男に手を振って電車を降りて行った。
男は戻って僕の横に座ると、「ほらな」と言った。「世界は美しい」
電車を降りると、確かに世界は美しかった。
耳の中で誰かが歌っている。
疲れない足になって、どこまでも歩いて行けそうな気がした。どこに行こうか。どこでも。
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