小鳥
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劇場で映画を観て、わたしはスクリーンの中の人たちと同じように大切な人に先立たれてしまって悲しい気持ちになる。ぎゅっと、胸を苦しくする。映画は終盤に差し掛かってハッピーエンドに向かっている様子で、画面の中にいる残された人たちはきっとこれから強く生きて行くのだろうということが物語られている。
一方で、わたしの中にはまだその悲しみが全然消化しきれていないまま残っている。まだ終わらないで、もう少し終わらないで先まで見せてくれと願う。エンドロールが終わった後にも、何かあるんじゃないかと思ってじっと座っている。
すぐにスクリーンは真っ暗になって、虚構の人たちは虚構の世界もろとも消えてしまい、またわたしだけの生活が始まる。周りに座っていた人々は、何か一つ終えたみたいなため息をついて次々に立ち上がって去っていく。
わたしもそれに従うしかない。
わたしは家に帰る電車の中で、もっともっと、その大切な人の不在を噛み締めては泣き、悲しんでは立ち直り、というそのくり返しばかりが延々と描かれている映画が一本くらいあってもいいのではないかと思ったりした。救いがない、ということが救いになることもあるのではないだろうか。どんな映画も、人生における大きな不幸も、小さなラッキーも、きちんと平等に取り扱うべきではないだろうか。
もしかしたらそんな映画は既にあって、そんな辛気臭い映画はつまらないだろうから埋もれてしまっているのかもしれない。きっとわたしも眠ってしまうだろう。
ジム・ジャームッシュを最後まで観れたことがない。大抵20分くらいで眠ってしまう。それも含めて良いんじゃんジム・ジャームッシュは、と声を大にして言いたいけど、多分言ったら怒られるのだろう。
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かつての恋人が手首を切って死んだと故郷の母親から聞いたのは、その映画を観る直前のことだ。
かつての恋人と言っても、それは高校生の頃の話で、もう十年以上前になる。彼にも、高校を卒業してからは会っていない。
ああ、いやだなあと思った。それだけだった。予告編が流れる暗闇の中で、「ああ、いやだなあ」と自分が呟く声が聞こえたのが、耳から離れない。その瞬間に生まれた黒い塊のようなものが、まだ胸の中に居座っている。
ただ事実として、映画を見ている間は一度そのことを忘れていた。映画の中で亡くなる人に、彼を重ねたりもしなかった。
その日は理由もなく眠れなかった。ああ、最悪だな。最悪だな、元彼が自殺するなんて、と呟くと、その声は部屋の闇に溶けて滲んでいった。死後の世界を信じるわたしと信じないわたしは半々ずついて、それが言い争っている声で胸がざわついている。それで眠れないのだ。ただそれだけなのだ。
どうしても眠れないので、スマホで「安眠 音楽」と検索して出てきたYouTubeのプレイリストを流した。今までだったら絶対やらないようなことだった。でもその、耳慣れたメロディをアホみたいな音色のオルゴールで紡いでいるだけの曲を聴いていると、アホらしすぎて眠ることができた。
今の恋人は声が好きだ。
「そっか」
わたしは電話でその声を聞いただけで安心してしまう。
わたしは恋人を声で選ぶ。もちろん他にいろんな要素があるけど、声が決め手になることが多い。この人と仲良くやっていけそうか、ということは声でわかる。そしてその予感は大体当たる。ああ、この声ダメかもな、と思った人と付き合うと、その恋は声とは別の理由ですぐにダメになってしまった。声が素敵だな、と思う相手だと、色々なことがあっても乗り越えていける。
実家、帰りたくないなあ、正直。
「でも帰ってきてほしいんじゃないの、その彼は」
まともなことしか言わないな、この人は。
「最後ぐらい手を合わせてきてあげなよ。小学校から一緒だったんでしょ?」
そうだけど。
ああ、引き止めてほしいなと思う。俺のことだけを大事にしてよとかそういう映画のセリフみたいなことを、今だけは言ってほしいなと心の片隅で思う。
「また来週会えればいいじゃん」
そうだね。その通りだね。わたしたちには死んだ彼と違って次の日も次の次の日もちゃんと来るはずだからね。というか、わたしが気にしてるのはデートの約束じゃないんだよね。正直に言えば、最近はわざわざ会わなくなって、あなたの声さえ聞ければいい日の方が多いの。
「ごめんね」と言って、わたしは電話を切る。彼の声が消える。
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母親は玄関でわたしの靴を揃えている。一人暮らしの家ではいつも自分で後ろ手で揃えている気がする。実家に帰るとできなくなる。
「あなた、ちゃんとお葬式用の靴持って帰ってきた?」
「なんかなかったっけ?黒いやつ」
「知らないわよ」
面倒がらずに持って帰って来ればいいのに、と言う母親の声をかき消すようにうがいをする。実家というのは、どうしていつもこう実家なのだろう。
「なんか、会社で上手くいかなかったみたいでね・・・」
「やめて」と言ってわたしは遮った。
「そういうの聞きたくないから」
「そう」
はあ、と母親はため息をついた。
わたしは大学進学と同時に家を出て、それから一度も戻ってきていない。部屋は高校生の頃のままになっている。
当時好きだった映画のポスターが貼ってあるけど、何も心が動かない。
死んだのだな、と思う。もうあの頃の自分は完全にいないのだな、と思う。仮にあの頃の自分がどこかに残っていたとしても、少し違うだけで完全に違うのだ。
彼もそうだったのだろう。
湿っぽい雨が降っていた。白黒のしましまでできた幕が、彼の家の玄関の周りに貼り付けられている。
わたしは手を合わせているとき、何を考えればいいのかわからない。緊張して何も浮かばなくなってしまう。
かろうじて一瞬浮かぶのは、「家族みんな健康で」で、これではただのお参りだ。それを焦って振り払っているうちに、みんなもう数珠をぶら下げて前を向いている。
「わざわざ来てくれて、ありがとうね」と、彼の母親は言った。「喜んでると思うわ」
時々、あなたの話してたのよ、高校卒業してからも。
どうして人間は、こんなにアンバランスにできているんだろうなと思う。それならばもっともっと強く天国や死後の世界を具体的に信じればいいじゃないかと、棺に花を入れながら泣き崩れる彼の母親を見ながらわたしは思う。
そしてわたしはどんなことがあっても倒れるまい、と心を硬くする。わたしは棺の中の彼の顔を見ることができなかった。
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実家からの帰り、映画を見るために渋谷に寄る。それは少し古い時代の貴族同士の悲恋を描いた映画で、今だったら本当にどうにでもなりそうな理由で若い二人の愛は引き裂かれてしまう。
どこかで見たことあるような話だな、と思いながらわたしはきちんと泣いてしまう。かつての恋人への思いを胸の中に秘めながら、たくさんの子どもを産み育て、幸せそうに年を取った女の姿を見て、健気だなと思う。
いいこともわるいことも都合よく切り取られ、巧みに物語に形作られたその女の人生を思いながら、わたしはまた自分の家に向かう電車に揺られる。
こうして整理して、物語にしてもらわないとまっすぐに悲しみを見つめることができない自分は、頭がおかしいのだろうか?
家のベッドに寝転がりながら、恋人に電話をかけて、「人ってどうして死んじゃうんだろうね」と聞くところを想像する。
「どうしてだろうねえ」と言いながら頭をフル回転させて、真理ではなくその時わたしが求めているような答えを彼は探すのだろう。でもそれは絶対に見つからない。
わたしは、そこに意味なんてないことをちゃんと知っているからだ。
わたしは電話をかけずに一人で眠る。
早朝、駅に向かう道すがら、アスファルトの上に小鳥が落ちていた。
自転車に踏まれたのか、お腹から赤いものがはみ出して見えた。頭はちゃんと残っていて、嘴が上を向いて震えていた。
鳥は空を見上げていた。
いつかわたしがああなってしまっても、わたしは絶対に映画みたいに、走馬灯めいたものを見ないぞと心に誓う。
わたしが見るのは、ごちゃまぜになった青やら赤やらが混ざる空だ。
何も持っていかない。
そしてまた駅に向かって歩き出す。強い足取りで。
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