テキストヘッダ

knock knock

縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURNjByQ2hFdVdWTUE


 両手で耳を塞いでから、人差し指で後頭部を叩くと、耳鳴りが消えるんだって。
 これのすごいところは、耳鳴りがしていないと思っている人にも効果があるんだ。俺もやってみたんだけど、すごく静かになるよ。まるで土に掘った穴の中にいるみたいに。
 Yはやけににやにやしながらそう言う。
 両手で耳をふさぐと、自分の声もYの声もくぐもって聞こえた。
 何回くらい?
 二十回か三十回くらい。
 手のひらの向こうから、うっすらとマクドナルドの中の喧騒が聞こえる。ゼッケンを付けた選手が、僕たちの他にもたくさんいた。
 とん、とん、とん、と、僕は中指に載せた人差し指をずり下ろすようにして、後頭部を叩きつける。
 目を瞑って叩き続ける。途中から、誰の意志で叩いているのかわからなくなった。

 目を開くと、Yはいなくなっていた。荷物もだ。飲みかけのアイスコーヒーと、Yが指先で弄んでいた爪楊枝が転がっていた。拾い上げてみると、先端にうっすらと血が滲んでいる。
 確かに、さっきより静かになっている。気がした。

 何かの冗談だろうかと思いながら海浜公園を抜け、市民体育館に戻る。海から吹く風は、それほど強いというわけではないのに、身体をさらっていってしまいそうに濃い。陸に吹く風とは、そもそも組成が違っているような感じがする。
 汚い色の鳥が数羽、空を飛んでいた。腐って崩れかかった卵に、翼と嘴が生えているみたいにも見えた。
 また耳鳴りが戻ってきたのかな、と思うと、鳥よりも遥か上空、薄い雲の向こうに飛行機が飛んでいるのが見えた。
 飛行機が去っていくと、また風の音しか聞こえなくなった。

 体育館内の放送で、僕の名前が繰り返し呼ばれていた。いつの間にか僕のエントリーはダブルスではなくシングルになっていて、すぐに試合が始まるらしかった。
 相手は、消えてしまったはずのYだった。
「よろしくお願いします」
 ラケット交換。相手のラケットのラバーを触るのが僕は苦手だ。何回やっても肌が泡立つ。相手の粘液に直接触れているような気がしてしまう。
 Yのグリップには、うっすらと血が滲んでいた。
 台の向こうにつくと、Yはもう一度深く頭を下げた。
 
 Yと試合をしながら、消えてしまったYのことを思い浮かべる。
 そんなに、嫌いじゃなかったはずなんだけどな。
 コン、コン、コン、とリズムよくラリーは続く。ダブルスと違って毎回自分で返球しなければならないのが妙に新鮮だ。

 コン、コン、コン、コン、コン・・・

 もう少し真面目に練習してくればよかった、と大会の度に思っていた。
 多分僕は、結構卓球のセンスがある。もしかしたらオリンピックにだって出られたかもしれないとすら思うことがある。
 相手の球筋が見える。
 自分の筋肉をどういう風に動かせばいいのかがわかる。
 このラリーだって、何だか少し先の未来を先取りして見ているみたいだ。
 僕は無駄のない動きで、相手に球を返していく。

 コン、コン、コン、コン、コン・・・

 外周ランニングの時、Yにユニフォームの裾を掴まれて、そのままマクドナルドやファミレスに引っ張られて行ってしまう意志薄弱な自分を悔やむ。
 Yの癖を、僕は全て知っている。どんな風に揺さぶりをかければ、彼が本当は拾えるはずの球を諦めてしまうかも。
 まだ勝負をかけるのは早い。もっとじっくり試合を楽しんでからだ。
 Yはにやにやと、不気味な笑を浮かべたまま、こちらの打った甘い球を、また甘い球で返してきた。

 コン、コン、コン、コン、コン・・・

 ラリーを続けながら球が台を打つ音を聞いていると、何もかもが自分が遠ざかっていく感じがあった。
 僕はふと足を止める。Yの打ったドライブが僕の横を通りすぎた。

 例えば、消えているのが僕の方だったとしたら?


 世界に対して、うっすらと疑っていることが僕にはいくつもあって、奇妙なバランスの上に世界が成り立っていた。それは決してアンバランスというわけではない。ただ奇妙なバランスなのだ。
 本当はもっと合理的なあり方があるはずだったり、不要なものがそこに存在したりする。
 そういう、ある意味コンピュータ・ゲームでいうところのバグみたいなものによってこの世界が支えられているとして、僕は何かの拍子にその一つを取り除いてしまったというわけだ。


 Yからサーブが飛んでくる瞬間に、自分のラケットのラバーの上に置いた指に違和感が走った。
 人差指に赤い孔が開いている。

 コン、コン、コン、コン、コン・・・

 Yの動きは、さっきまでと全く違った。まるで、僕の動きを全て予測しているかのようなのだ。
 Yはにやにやと笑いながら、僕が苦し紛れに打った甘い返球を、また僕がギリギリレシーブできるところで返してきた。

 コン、コン、コン、コン、コン・・・
 
 カン!

 ギリギリで打った僕のドライブが、Yの横をすり抜ける。
 Yは一瞬虚を突かれたような顔をしていたが、すぐに笑った。
「もっと練習してくればよかったって思ってるだろ」
 そんなの、もう遅いんだよ。


 やはり僕は卓球なんてやっていなくて、ただマクドナルドで月見バーガーを食べているだけだった。
 リニューアルした、という月見バーガーは、去年とどこがどう変わったのか僕には全然わからなかった。でも、変わった、とマクドナルド側が言っている以上は確かに変わったのだろう。
 あまり美味しいと思えなかった月見バーガーをトレイの上に置いて、Twitterで見た「耳鳴りの止む方法」を試していたら、Yがコーヒーのお代わりを手に帰ってきた。
 Yはにやにやしながら僕を見て、何か言った。耳をふさいでいるので聞こえなかった。
 頭から手を離すと、Yは一口しかかじっていない僕の月見バーガーを指差して「食べないんなら食べていい?」と聞いた。
「いいよ」
 Yが僕の食べかけの月見バーガーを食べているのを眺めながら、ふと指先を見ると、そこにはやはり孔があるのだった。

 マクドナルドの上空で、飛行機が飛んでいる音がする。
 

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