テキストヘッダ

尿意

※縦書きリンクはこちら https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURdHdmU2RXZHpCeUE

「この前、マクドナルドで仕事しているとき、後ろから若い女の子たちの会話が聞こえてきたんだけど」
 こういう枕で始まる話には碌なものがない。
「こういう枕で始まる話には碌なものがない、と思ってるだろ」
 まあ聞けよ。

 この間、変な夢を見たの。
 おしっこを我慢しているときに見た夢。
 私は水辺に立っている。整備されていない、浅瀬の砂利道に立っている。薄いもやのようなものが立ち上っている。工場みたいな灰色の壁が並んでいて、途中から霧の中へと消えている。水辺はどこまでも続いていて、水面は鏡のように静か。膀胱が熱くなっているのがわかる。
 後ろから、おじさんがやってくるの。
「やあやあ」
 よくいるおじさん。お腹が出ていて、髪の毛は薄くなっている。上はポロシャツを着ているけど、下はパンツしか生えていない。脂っぽい顔をしているけど、ハンプティ・ダンプティみたいにも見えてちょっとファニーな感じがする。
「ちょっと失礼しますね」
 おじさんは私の横を通りすぎていって、そのまま水の中に入っていってしまう。ちらりとこっちを見ながら、ざぶ、ざぶと波を立てて。おじさんの丸い頭は、潜水艦が沈んでいくときみたいに、だんだん円が小さくなって消えるの。波。後には何も残らない。
 私の尿意は、どこかに行ってしまっている。

 女の子たちは意外にも、げらげら笑ったりするのではなく、「それって、そのおじさんがあなたのおしっこを連れて水の中に入っていったってこと?」とか「水辺自体があなたの膀胱そのもので、おじさんがそこに入っていくことで、一旦尿意が収まっているんじゃない?」とか「でもそれだったら、溢れる方が自然じゃない?」などと真面目に議論していたのだという。

 僕は机の上でペーパークリップをいじくりながらそれを聞いていた。いつの間にか、指先でひとつ、ペーパークリップがほどけていた。ただの針金になっている。

「どう?」
「どう、って」
 確かに面白そうな話だな、とは思った。
 課長が会議室に入ってきて、雑談はおひらきになった。病気で突然退職することになってしまった同僚の業務を、どう分掌するか決めるためのミーティングだった。
 会議が終わると、ほどけたペーパークリップが机の上で四本に増えていた。僕は人差し指と親指でそれを束ねて、易者のように混ぜ合わせた。束ねていた書類は、一気にシュレッダーに突っ込む。

 帰りのバスの中でふと目を醒ますと、目の前に水辺が広がっていた。
 尿意を感じた。暴力的、破壊的尿意だった。尿の重みで膀胱が垂れ下がっているのがわかるくらいだった。巨人がその膀胱を、今にも握りしめようとしているみたいだった。
 夢を見ているということはすぐにわかった。でも、これがあくまで夢の中の尿意なのかどうか、というのが問題だった。膀胱は現実の世界と繋がっているのだろうか?

 僕は水面を見ていた。波はない。水面を見ていると尿意が高まった。不思議と、水面から視線を外すまでに苦労した。霧があり、壁が霧の向こうへと消えている。
 振り向くと、おじさんがいた。
「やあやあ」
 おじさんはやはりポロシャツを着ていて、下はパンツ一丁だった。靴も履いておらず、裸足だった。
 話とはひとつだけ違うところがあった。おじさんは僕に向かって話しかけてきたのだ。
「この水の下には街があった」
 随分昔のことだけどね、とおじさんは言った。
「君が想像しているような、村とか畑とかそんなレベルじゃないよ。コンピューターもあった。ビルもあった。でも沈んでしまったんだねえ」
 おじさんは、あああ、と伸びをしながら息をを吐いた。
「街ってのはね、生きているわけですよ。人間とは別の在り方で」
 おじさんは屈伸運動する。変わった小人みたいだった。
「だからこうして、たまに慰めてあげるわけですねえ」
 おじさんは水面に歩み寄り、肩を切りながらざぶ、ざぶと水の中に入っていった。
 思ったより勾配が緩やかだ。背中が遠ざかり、段々とおじさんは沈んでいった。
「水脈って言うくらいですからね。やっぱり水は命なんですよ。その水に沈んでしまうなんて、街も思っていなかったでしょうねえ」
 おじさんは音もなく水の中に消えた。
 僕の尿意はどこかに行ってしまっている。

 家に帰ってスマートフォンを見ると、病気になった同僚から、「すまん」とだけメールが入っていた。僕も「いいよ、気にするな」とだけ送った。
 500mlの缶ビールを空にした。我ながら、干上がるみたいに一瞬のことだった。すぐに、むくむくと尿意が湧いてきた。
 トイレで用を足しながら、街中に張り巡らされている下水道を想像した。きれいとか汚いという話しではなくて、この水面もその水脈に繋がっているのだ。何だか嘘みたいだなと思った。
 僕は慰労の気持ちで、尿を放つ。

 そしてまた街は静まり返る。

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