Bank
銀行の永遠とも思えるような長い待ち時間の間、僕はリゾートホテルのパンフレットを眺めて時間を潰す。青い海。青い空。何もかも忘れて、ゆったりとした時間を過ごしましょう。当ホテルは都会の生活に疲れた皆様の心も身体も癒します。
ポーンと音がして、窓口のそばの電光掲示板に、デジタルの数字が表示される。258番の方、12番カウンタにどうぞ。
僕の横に座っていた、大量の金貨でも預けていそうな太った婦女が、生まれたての赤ん坊の頭みたいな小さなポシェットを脇に抱えて12番カウンターに吸い込まれていく。258番。銀行というのは、いったい一日の間にどれくらいの人間を捌くのだろう。
僕は再びパンフレットに目を落とす。どこにあるホテルなのだろう。この島に時間の概念はありません。時計は持ち込みを禁止しております。ただ、青い空と黒い空が交互に入れ替わるだけ。雨は滅多に降りません。まったく降らないと言っても過言ではありません。時間の概念はありません。
時間の概念がない場所なんて本当にあるのだろうか。あるわけがない。その島に本当に時間が流れていないとしても、その島の外では確かに時間が流れていて、島だけが取り残されてしまう。そう考える僕を先回りするように、文言が付け加えられている。皆様がお帰りになるお日にちお時間は、こちらできちんと責任を持って管理いたします。夢から覚めるような気持ちで、それを迎えていただくだけです。
完全に管理された孤島。僕は眼鏡を外して、鼻の付け根をこする。昨日の夜更かしがきいてきている。目を閉じると、ブルースクリーンになった画面が青白い光を放っているのが、形になって浮かぶ。
また、ポーンと間抜けな音がして、数字が表示される。260番。8番カウンタにどうぞ。
いつの間に259番が呼ばれたのだろう?自分の数字を確認しようとして感熱紙を探すが、胸ポケットにもお尻のポケットにも見当たらない。感熱紙に印字されていたはずの確固たる数字は、僕の頭の中のどこかに溶けて消えてしまっていた。
260番と思しき老人が、8番のカウンタに吸い込まれていく。杖をつき、ゆっくりとした足取りで、8番カウンタに続く長い絨毯の上を歩いていく。僕はそれを追い越して、カウンタの中でせわしなく動き回る男性行員に話しかけた。
「すみません、自分の番号が書かれた札を失くしてしまったのですが」
「え?」行員は穴の空いたガラスの向こうで一瞬目を見開いたあと、手を耳に添えてもう一度言えという合図をしてきた。まるで留置所みたいだ、と僕は思った。
「番号が書かれた札を失くしてしまいました」
「ああ」彼は腰をまっすぐに直して、「じゃあ、もう一度そこの番号発行機で番号札を発行してください」と入り口を指差した。
「あの、もうかれこれ一時間ほど待ったんです。259番は呼ばれましたか?」ポーンと頭上で音がして、261番が呼ばれた。腰まで髪を伸ばした歳を取った男が、カウンタに吸い込まれていく。浮浪者のような人間でも、銀行に用事がある。行員は面倒くさそうな足取りで一度カウンタの向こうに消えて、無表情で戻ってきた。
「お呼びしたようなのですが、カウンタに誰も来なかったとのことですお客様」
「本当に呼んだんですか?ひとつ飛ばしちゃったとか、そういうことはありませんか?」僕は258番が呼ばれたところまではしっかり覚えている。
「あり得ません。なにせ機械を使って管理しているんですから。258番が呼ばれた後は、259番です」
僕は顔をしかめる。「僕が聞き逃してしまったのかもしれません。でも、トイレに行っている間に番号が呼ばれてしまうこともあるでしょう。飛ばされてしまったら、どこかに割り込みさせてもらうことはできませんか?申し訳ないとは思うんですが」
「恐れ入りますお客様。たくさんの人にお待ちいただいているものですから、ご理解いただければ。今申し上げました通り、そういうことがあった場合は、もう一度番号を発行してもらっています」
こうしている間にも銀行の中には次々と人が入ってきて、番号を発行している。
「ねえ、そんな杓子定規にならなくてもいいじゃないですか。僕はずっと待っていたんだ。くそつまらないパンフレットを見ながらさ」
青い空、青い海。雨はまったく降らないと言っても過言ではありません。時間の概念はありません。
行員はついに面倒くさそうな表情をしながら、「でも、お客様が259番だった、という証拠もございませんので」と言った。またポーンと音がする。いつの間にか番号は、266番まで進んでいた。
行員は、改まったように背筋を伸ばして、こう言った。
「お客様、大変申し訳ございませんが、もう一度番号を発行してお待ちください」
僕は行員の態度がかなり頭に来ていたが、確かに彼の言う通り、自分が259番だったという確証はない。もうしばらく待って、番号が呼ばれても誰もカウンタに向かわなかった場合、それが自分の番号の可能性がある。
僕は一応もう一度番号を発行して、おとなしく待つことに決めた。まるで259という数字だけが、永遠に時の狭間に紛れ込んでしまったような気がした。席に戻る途中、異様に眼球が飛び出た、かんしゃく持ちのゴブリンのような男とすれ違った。
再びベンチに腰掛けて、パンフレットに目を落とす。ホテルの紹介。「何もかも忘れて、ゆったりとした時間を過ごしましょう」という文字の下に、細かい文字が並んでいる。
「めまぐるしく流れる現代社会の時間の中で、何もせず、何も考えない時間を作り出すのは至難の技です。携帯もパソコンも分厚い文庫本も全部都会の部屋に置いてきて、是非身ひとつでおいでくださいまし。服も下着も日用品も、当ホテルは全てご用意しております」
確かに、何もせず何も考えない時間を作れるのは素敵なことのように感じる。一泊や二泊でそんなものは作れないとでも言うように、ホテルの宿泊プランは長期的なものが提案されていた。
ガリガリに痩せた顔色の悪い鳥のような主婦が、鉄球の枷みたいな太った幼児の手を引いて9番カウンタに吸い込まれていく。
僕は何も持たないラフな格好で、島に横付けされた船から下りていく自分を想像する。一切無駄な肉の付いていない白いホテル。波の音だけが僕を包み込む。悪くないかもしれない。何もしない時間、というのがどういったものなのか想像ができない。この上なく贅沢なことのように感じられる。僕は波の音を聞きながら、ビールか何かを飲んで、青い空に身を預けるのだ。眠りか瞑想かが僕を運び、僕は周りの風景と一体になる。
ポーンという音にはっとして顔を上げると、277番が呼ばれていた。5番カウンタにどうぞ。じっとりと背中に汗をかいている若い女がカウンタに吸い込まれていく。大きな白い帽子を被った彼女は振り向かない。何かに見えない糸に引っ張られているかのように、しゃなりしゃなりと長い絨毯の上を歩いていく。まただ。僕は自分が何番だったのか思い出せない。感熱紙はポケットから姿を消している。
僕はため息をついてパンフレットを丸めて捨て、銀行を後にした。僕の番号は永遠に呼ばれないのだろう。透明のドアを開けると、足下からとろけてしまいそうな夏だった。
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