ネオ・カンガルー日和
※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURUUlpdHV4MUJHMDA
めまぐるしい日々が続いていた。
僕は大学の仕事を辞めて、地元の小さなデザイン会社に再就職したところだった。友達がようやく軌道に乗せた会社で、猫の手も借りたいくらい忙しかった。十六分音符が並んで真っ黒になった楽譜を目で追っているみたいだった。忙しいと言う暇もないくらい忙しかった。
そして何週間かぶりに、突然合奏が止むみたいに休みがやってきた。
「ビルの安全点検だってさ」
くそ、何も聞いていないのに、と会社の経営者である友達は言った。僕たちの会社が入っているビル丸ごと、インターネットも電気も消えてしまうらしい。火でもつけてまっさらにしてやりたいくらいだ、と友達は言った。
明るい時間にオフィスを出ると、もう二度とここには戻れないんじゃないかというような気がした。
「そんなわけで、明日突然休みになったんだ」
「そう」
久しぶりに話す彼女の声は小さく途切れがちだった。携帯電話の電波の調子だろうか?昔からそうだったような気もするし、そうじゃなかったような気もする。
「君は?」
「何が?」
「休み?」
「休みだけど?」
服についたコーヒーの染みでも落としながら喋っているみたいだ。
「動物園にでも行かない?」僕は言った。「新聞で読んだんだけど、カンガルーの赤ちゃんが生まれたんだって」
「へえ」と彼女は言った。「カンガルーの赤ちゃんね。カンガルーの赤ちゃんを見てどうするの?」
「どうするたって、そりゃあ」
「カンガルーを見ることが、今の私たちにとって一番重要なことなのでしょうか」
僕は携帯電話を耳に当てながら冷蔵庫を開いた。発泡酒とビールとお土産でもらったドイツのピルスナーがあったので、ピルスナーを選んだ。
「そんなに怒ってるって思わなかったんだ。ごめん」
「久しぶりに電話をかけてきたと思ったら、カンガルーの赤ちゃんだなんて」
僕はピルスナーの瓶を腿に挟んで、片手で栓を抜いた。魂が解放されるような間抜けな音がして、蓋が地面に転がった。彼女には聞こえていないようだった。
「カンガルーの赤ちゃんなんて、見たくないわ」
そう言って彼女は電話を切ってしまった。
僕はピルスナーを飲みながら、動画サイトでカンガルーの動画を見た。「カンガルー」で検索すると、一晩ではとても見切れないほどの動画がアップされていた。
動画の中のカンガルーは、喧嘩しているか寝転んで身体を掻いているかのどちらかばかりだった。
カンガルーたちが器用に尻尾で立ち上がって戦う姿はどれも滑稽だった。まるで鏡の中の自分にいちゃもんをつけているみたいだった。
「ははは」
僕は一人で笑った。こんなのが見れるんだよ、って彼女に教えてあげるべきなのかもしれなかった。
ほとんどはお互いが組み合って組んず解れつになるくらいのものだったが、尻尾をばねのように使って相手のカンガルーを思い切り蹴り飛ばすものもあった。切り飛ばされたカンガルーは地面に転がってフレームアウトし、蹴った方のカンガルーはぼんやりと相手が転がっていった方を見据えていた。狂った王様が自室にこもっているみたいな表情だった。
カーテンの向こうから雨の音がしたので、窓を閉めた。もう夏はとっくに過ぎ去ってしまっていて、吹く風が冷たいことに気がつく。ピルスナーはあっという間になくなってしまっていた。僕ですらこうなのだから、ドイツ人はこんな量じゃ全く満足できないだろう。僕はドイツ人の家の大きなバケツに、ピルスナーの空き瓶が山となって積まれているところを想像した。僕は冷蔵庫を開けて、発泡酒のプルタブを上げた。
動画に戻ると、そこにはカンガルーの赤ちゃんがいた。
「カンガルーの妊娠期間は一ヶ月間しかありません・・・」
カンガルーの袋の中にいるカンガルーの赤ちゃんは、毛が生えていないどころか皮膚も透き通っていて、青と赤の血管が浮き出していた。
窓の外の落雷の音が、解説音声を攫っていった。
飼育員がカンガルーの母親のお腹の袋に手を入れて何か解説している間、横にいた身体の大きなカンガルーは地面に横たわって太ももの付け根を掻いていた。
僕の目には、カンガルーの赤ちゃんはグロテスクにしか見えなかった。まだ本来なら母親のお腹の中にいるべきところを、間違って外に出てきてしまったようにしか見えないのだ。
「カンガルー、見たことあるの?」
「あるわ」
「それって生で?動物園で?」
「動物園でよ。ねえ、またカンガルーの話なの?」
「カンガルーの話がしたいんだよ」
携帯電話の向こうで、彼女ははあとため息をついた。僕はその隙に発泡酒を飲んだ。
「カンガルーの喧嘩は?」
「カンガルーの喧嘩?」
「カンガルーは殴り合って喧嘩するんだ」
腕をつかんだり、相手を羽交い締めにしたりして。尻尾で立ち上がって思い切り蹴り飛ばしたりもする。
「どうして?」
どうして?
「ふざけあってるうちに暴力がエスカレートしたのさ。片一方がちょっかいをかけているうちに、左のストレートが入っちゃったのさ。そこからは普段から溜まり溜まっていたものが噴出したんだ」
「そう」
彼女は、今度は爪のささくれでも見ているみたいな返事だった。あるいは鶏肉でも仕込んでいるうちに、爪の隙間にスパイスが入り込んだんだろう。
「激しい喧嘩さ。時にはカンガルーが吹き飛んでごろごろ転がって岩に頭をぶつけてぱっくり脳みそでも出ちゃうんじゃないかってくらいの蹴りが出ることもある。でもカンガルーは無表情のままなんだ。蝿が周りを飛んでても気にしてないみたいな顔してる」
僕が発泡酒に口をつけている間も、彼女は返事しなかった。
「それから、例の赤ちゃんさ。見たことある?」
「あるわ。お母さんのお腹の中にいるんでしょ?」
「それがカンガルーの赤ちゃんだってすぐわかった?」
「わかるわよ。小さなカンガルーだもの」
僕は口の端に笑みが浮かんでしまう。
「違うんだ。生まれたてのカンガルーの赤ちゃんというのは、まだほとんど胎児みたいなんだ。まるで鶏肉さ。血管も骨もむき出しで、どこに目があるかもわからない。そんな状態の赤ちゃんを、カンガルーの母親は、お腹の中でミルクをやって育ててる」
「ふん」
「思ったことない?ずっと母親のお腹の中にいられたらいいのにって。でも、いざちゃんとものごとの分別がつくようになってしまったら、余計に外に出るのが嫌になってるだろうなって。でもカンガルーの赤ちゃんは、そんなの目じゃないくらい早く生まれて、産道から自力で母親の袋の中に入るんだ」
「そうなんだ」
「すごくないか?」
「すごいね」
雷鳴は遠ざかっていったようだ。光が差したあとしばらくして、地鳴りのような音がやってくる。
テレビで明日の天気予報がやっていた。東京は、晴れです。穏やかな一日になるでしょう。日中と夕方の気温差が激しいので、お出かけの際は羽織るものなどを忘れずに。
僕はビールを取り出した。少し酔っ払っていた。どうせ飲んでしまうなら、先にビールを飲めばよかった。酔ってしまうと、だんだん味がわからなくなるのだ。
「とにかく会おうよ」と僕は言った。
「動物園じゃなくてもいいし、適当にどこかに入ってビールを飲むだけでも良い」
「カンガルーの話は?」
「もうしないよ」
「聞きたくなったら?」
「聞いても良いよ」
わかったわと彼女は言って電話を切った。待ち合わせ場所は御茶ノ水にした。
動物園が近いからだ。
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