テキストヘッダ

Gas

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURWmFOUHBWNU1VNkE

この冬、山形県で一番寒い日のことだった。
 地下室で作業していると、「ハロー」と声がした。声の方を見やると、ガスメーターがこちらに向かって笑いかけている。

 その日は朝から頭痛がしていた。色味の強い夢を見たのだ。人も風景も青紫色で、影は全部赤色だった。ネオンが光っているバーだかライブハウスだかの重い扉の前で煙草を吸う夢。知らない人に火を貸してくれと言われる夢。何故か俄かに高揚した気分の夢の中の僕は、ライターを近づけて彼の咥える煙草に火を点けてやった。彼の吐く煙は、いかにも気持ち良さそうに暗い空に伸びて行った。気が付くと男の姿はなくなっていた。不気味だけど悪い夢ではなかった。
 目覚めると、激しい頭痛がした。その夢と、頭痛と、ガスメーターが話しかけてくることの間には何か関係があるのだろう。まぶたの上から眼球を押さえる。溶けた氷枕を触るみたいな、どろりとした実体のなさを感じた。

「あのさ」とガスメーターは話を続けた。「聞こえないふりしてる?」
 一旦無視して作業を進めようとしたが、はにかんだ顔と完全に目が合ってしまった。
「ガスメーターのくせに話しかけて来るなって?」
 いえ、そういうわけでは。

 地下室は暗くて寒い。当然だ。地上には雪が積もっている。僕の吐く息は濃い白色で、そのまま空中で凍ってしまいそうだった。こういうデタラメなことが、ここに来てからよく起こるのだ。だから、大きな驚きはなかった。

「まあ俺もさ」と、ガスメーターは腰を捻りながら続けた。中年のガスメーターだった。よくよく観察してみると、僕の父親と同じくらいの年嵩と見えた。熟練のガスメーター。その声は低くしゃがれている。彼はため息まじりにこう言った。
「たまにはこうして、愚痴を聞いて欲しくなるわけ」
「はあ」
「だからさ、こうやって話しかけてみたわけだけど」
 その目には、独特の切実さが宿っていた。あまり見たことがない種類の目だなと思った。僕の父親や上司も、こうして誰ともなく愚痴を言いたくなるとき、こういう目をするのだろうか。
「いざとなると何から話せばいいのかわかんなくなるもんなんだよな、こういうのって」

 しばらくの間、耳鳴りのような沈黙が地下室を満たした。耳の中にある空間の、低いところに響く音だった。僕はとりあえず作業がひと段落するところまで進める。少し目を離した隙に、軍手の指先がべっとりと汚れていた。
 ガスメーターは、いつの間にか煙草を吸っていた。
「ガスメーターが煙草なんて吸っていいんですか?」
と僕が言うと、彼は、「なんだよ。ガスメーターは煙草吸っちゃいけねえのかよ」と強い語気で返した。
「いえ、そういうわけでは」
 確かにそうだ。ガスメーターだろうがなんだろうが、煙草くらい吸う権利はあるだろう。なにか、本当にどうでもいいことを言ってしまったような気がしたので、僕はすぐに素直に謝った。
「ガスメーターだって、煙草でも吸わなきゃやってられねえと思うことがあるんだよ」
 と、ガスメーターはぶつくさ言った。ガスメーターにはガスメーターなりの、ガスメーターにしかわからない苦労があるのだろう。
「そうですよね、ごめんなさい」
 彼はまた静かに潤んだ目になって、煙草の火を床にこすり付けて消した。ふう、とため息と煙の混じった気体を吐き出す。
「いいんだ」
 僕は地下室の床にお尻をついて座り、ガスメーターの話を聞く姿勢を取った。
「こんなはずじゃなかったんだ」

 床に散らばった煙草の灰が、まだちらちらと赤く光っていた。そこだけに時間が流れているみたいに、光が揺らいでいる。
「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、と思ってたら、いつの間にかこんなことになってたんだ。若いときにもっとチャレンジしとけばよかったって、今になって思ってる。あんた今幾つだ?」
「今年二十八です」
「ああ、まあよくある話だけど、偉大なミュージシャンってのはみんな二十七で死んでるっていうじゃない」
「そうですね」
 そういうことはくだらないと思っていた。二十七歳を超えて生き、たくさんの名曲を作り続けているミュージシャンはたくさんいる。でも正直に言えば、二十八歳になった瞬間、そういうおかしな逸話のことが頭によぎらなかったわけではない。
 僕は二十七歳で死なない人生だったのだ。
「わかるよ」
 ガスメーターは僕の思っていることを先読みしているようだ。
「おれもそんなのくだらないと思うよ。でもおれもそんなのくだらねえって言ってるうちにこのざまだ」
 このざま、というのはガスメーターとして生きている状態のことを指すのだろうか。
「まあなんというか、あんたには失礼かもしれないけど、同類かなと思って話しかけてみたのさ」
 こうして話す間にも彼の目元にある数字板は、ゆっくりと一の位を回し続けていた。今は七と八の間だった。

 地下室は静かだった。分厚い地面を通り越して、雪がしんしんと降り積もる音が聞こえるくらいに。
 ガスメーターはまた煙草に火を点けて、一息に煙を吸った。彼の身体に繋がっているパイプ全部を煙で満たしたのだろう。鉄のパイプが薄く曇っていた。そして長い煙を吐き出した。見たこともないくらい長い煙で、それは部屋の気温をぐぐっと上げた。不快ではなく、むしろ心地よかった。頭がぼんやりしてきたのか、さすがガスメーターだ、とよくわからないことを思った。
「吸うか」
 彼は銀色の箱から一本煙草のフィルタ側を差し出した。
「ありがとうございます」
 ガスメーターは身を捩じらせ、ジッポのライターで火をつけてくれた。風もないのにパイプの膨らみを僕の咥えた煙草にあてがって。地下室に灯る明かりが二つになった。煙草からは秘密めいたスパイスの香りがして、のどがぴりぴりした。僕は肺一杯に煙を吸い込んで、地下室に煙を充満させるつもりで煙を吐いた。
「おお、いけるクチだねえ」
「煙草でも吸わなきゃやってられないことがあるんです」
「はは」
 例えばこの小さな街の地面の下には、こういう小さな空洞がいくつもあって、それぞれが浅い息をしているところを、僕は想像した。そういうひとつひとつの空洞が、こうして息をしているのだ。

「こういう、静かに雪の降ってる日に思い出すことがある」と、ガスメーターは遠い目をしていった。メーターの千の位が、いつのまにか二から三になっていた。
「おれはここよりももっと北の生まれでねえ。何にもない静かな街だった。雪が降るとほんとに何にも聞こえなくなってね。今思えば、あの街の人間は何をして生き延びていたんだろうってくらい静かだったんだが。でも静かな分、今よりもずっといろんなことを考えていたような気がするよ。くよくよもしたけど、わくわくもしていた」

 僕はガスメーターの声を聞いているうちに、眠たくなってきた。地下室は、不思議な香りのする煙で満たされている。
「まあ、少しくらい眠ったってばちは当たんないさ。誰にも気づかれないだろ?」
 ガスメーターが優しく言った。誰にも気づかれないだろ?悪気はないのだろう。ガスメーターの言う通りだった。
「少ししたら起こしてやるよ。おれもそろそろ戻んないと」
「ありがとうございます」
 地下室の壁から地面へと、ゆっくりと熱を伴った煙が染み渡っていくのを感じた。ひりひりと焼け付くような感触が、まだのどに残っている。
僕は軍手を着けたまま手のひらを合わせて、汚れていない手の甲を枕にして寝転んだ。
「こういう日に聴く曲があってね」
 ビル・キャラハンのティーンエイジ・スペースシップって曲なんだけど。
 はい、どんな曲ですか、と返事した気がするが、していないかもしれない。 眠りに落ちる前の記憶はそこまでだった。

 目を覚ますと、ガスメーターも僕と同じように眠っていた。数字のメーターだけが、絶え間なくじっくりと回っていた。
 地面は地下室然として冷たかったが、僕はびっしょりと汗をかいていて、地面に僕の寝転んだ跡がついていた。僕を覆う膜が破れて、体液が漏れ出してしまったみたいだった。どくどくと心臓が脈打っているのを感じた。
「帰るんだな」
 と、ガスメーターが目を瞑ったまま静かに言った。
「なんつーかさ、まあ、これと言って具体的な話したわけじゃないけど、気分は晴れたような気がするよ」
「僕もです」
 耳を澄ますと、まだしんしんと雪の降る音が聞こえた。
「なんていうか、こういうのは秘密にしておいた方がいいぜ」
「そうですね」
 まあ、誰かに言う必要もないんだろうけど。
 そう言いながら震える僕の喉が熱かった。
「おい、一本ちょっときつい煙草吸ったくらいでそんな声枯らすなよ」
と、ガスメーターがしゃがれた声で笑った。
「気楽に行こうぜ」

 僕は地表に上がり、仕事場に戻った。
 突然しゃがれてしまった僕の声を、同僚や上司が笑った。そのしゃがれ声はしばらくの間直らないままだった。
 僕の頭蓋骨を伝って聞こえてくるその声が、普段とは違ってなかなか新鮮で素敵に聞こえたので、その間僕は結構饒舌だった気がする。

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