台風
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その日は関東、というよりは僕の認識的には東京に台風がやってきていて、そのせいであらゆる交通機関が麻痺している日だった。新宿のバスターミナルや東京駅の構内で、呆然と立ち尽くす人々が遠い目で宙を見上げている映像が、テレビでしつこいくらい何度も流れていた。あれほど何日も前から渦を巻いた白い雲が日本列島に近づきつつあることをやかましく報道していても、予定をキャンセルできない人間がこんなにたくさんいるのだ。僕の住んでいる街は静かな雨が降っているだけで、そのせいなのか普段気が狂ったように鳴いている蝉の声も聞こえなかった。鈍色の厚い雲が、レースのカーテンの向こうで静かに波打っているのが見える。
彼女の膝は柔らかかった。
「好きね」と頭上で彼女が言った。
「何が?」
「こういうニュース」
「こういうニュース?」
「非常ブレーキが壊れたせいで、六時間くらい新幹線が動かなかったってニュースのときも、いつだったか成田で大規模ロスト・バゲージがあってみんなすぐに帰ることが出来なかったニュースのときも、そうやってニヤニヤしながら足止め食っている人たちを眺めていたわ」
「そうだったかな」
「そうだったわ」
確かにそうかもしれない、と心の中で思った。今テレビには、雨に濡れたサラリーマンが「困りますねえ、非常に」と言っている映像を流している。そんなものじゃ太刀打ちしようがないだろうと誰もが思うような小さなチェックのハンカチが、男の手の中でくしゃくしゃに丸まっていた。
「でも、別に馬鹿にしているわけじゃないよ」
「そうなの?」
意地悪な顔をしているけど。いたずらっぽく言いながら彼女は、膝の上の僕の頭を優しく撫でた。クーラーの効いた部屋の中で、その指だけが心地よい温かさをまとっていた。部屋が少し寒すぎるが、リモコンまでが遠かった。
「違うよ。決して馬鹿にはしていない。この人たちが諦めるところを想像してるんだ。ああ今日はもう帰れない、しょうがないからどこかにホテルでも取って部屋でゆっくりビールでも飲もうかなとか、よく雑誌やテレビで見るけど名前しか知らない都内のどこかに行ってみようかなとか、そういう風に思うところを想像してるんだよ」
「どうして?」
「安らかな気持ちになるからだよ」
「どうして安らかな気持ちになるの?」
「『なるようにしかならない』という深い教訓を示してくれるということがひとつ。そして、それは、絶え間のない現実からの逸脱でもあるからだよ」
意味がわからなーい!と言いながら彼女は僕の髪の毛を掻き毟った。それもまた、心地よい刺激だった。
「逸脱があったとしても、それはいずれまた元の流れに収束してしまうか、それこそが本流に成り代わってしまうんだよ」と髪の毛をぐちゃぐちゃにされながら僕が付け加えると、彼女は、あ、白髪見っけ、と呟いた。つまりそれって、またみんなお家に帰るってこと?そう、そういうこと───帰る場所が家になるんだ。
そろそろ日が暮れ始めていて、部屋は青白い闇に飲まれ始めていた。海に囲まれた日本列島を俯瞰で映すテレビも、青くぼんやりとした光を吐き出している。僕はさっきのハンカチを持ったサラリーマンがなんとか無事にホテルまでたどり着いて───それは大浴場付きのビジネスホテルだ───ひとっ風呂浴びた後寝間着姿でビールのプルタブを上げ、テレビに映っている帰宅難民たちが「明日までにどこどこに行けないと困りますねえ」とか言っているのを眺めているところを想像した。ねえ、この白髪抜いていい?え、抜くと増えるんでしょう?それ迷信らしいよ、レミングスが集団自殺するのも迷信って、あ───
「携帯鳴ってるよ、電話」と彼女が目の前に差し出したスマートフォンが、黄色い光を吐いている。
「もしもし」
「よう」
久しぶり、と言ったその声は、高校時代の同級生だった。ああ、久しぶり。
「あのさ」
くつくつくつ、とその声は既に震えて上ずっていた。不吉というよりは、不快な予兆があった。どうしたんだよ、と言いながら頭を起こすと、彼女が「だ・れ」と口の形を作った。「と・も・だ・ち」と僕は返す。「じ・も・と・の」と付け加えると、彼女の眉根に少し皺が寄った。この街から離れたことのない彼女は、遠い場所に住んでいる僕の友達のことがなんとなく気に入らないのだろう、と思った。僕が彼女の友達に会うたび感じるように、彼女の知らない僕がそこにはいる。そしてその知らないお互いを、お互いが知ることはきっとないのだろうということを、二人とも無意識的に気づいてしまっているからだろう。少なくとも僕はそう思っていた。
「びっくりしないで聞いてくれよ」
立ち上がってリビングの扉に手をかけると、青い光の差す小さな部屋の地面に彼女が尻をついて座っている姿が見えた。ニトリで買った合板の机が、薄っぺらな光を反射している。扉を開けると、夏の熱気が緩やかな弾力で僕の身体を押し返すのを感じた。その間もくつくつとした笑い声が受話器の向こうから聞こえている。
「何だよ、早く言えよ」
「さっき平和堂に行ったらさ」
さっき平和堂に行ったらさ、お前のお母さんが、SEX PISTOLSの黄色いTシャツ着て、卵買ってたぜ。
「しかも無精卵」
それから買い物かごからねぎが飛び出してたから、親子丼じゃないかな、今日のお前んちの晩御飯。そう言い終わると彼は、大きな声を上げて笑った。
寝室は蒸し暑く、ズボンの膝の裏が足にまとわりついてくる感じがあった。彼女がトイレの行きしなにこちらの部屋をちらりと覗き込んだが、その顔は無表情だった。
「あれお前が昔着てたTシャツだろ。悲惨だぜ。親が子どものパンク・スピリッツを引き継ぐなんて」
僕は自分の太った───どちらかと言えば最近のジョニー・ロットンだ───母親が、煌々とした白い光に包まれた近所のスーパーで、僕のお下がりのセックス・ピストルズとプリントされたTシャツを着て卵を買っている姿を想像した。全てが知っている情景なので、ありありと想像できてしまう。
「笑いをこらえるのに必死だったよ。サンバイザーを意味ないぐらい角度つけて被ってたぜ、お前のお母さん。アミダラかよ。俺のことをちゃんと覚えていてくれたみたいで、お前が全然帰ってこないって嘆いてたよ。あなたからも言ってやってちょうだい、って言われたから電話したんだ。もっと帰ってきてやれよ。アミダラが親子丼作って待ってるぜ」
彼は───確か地元の衣類メーカーか何かに就職したはずだった。早くに結婚して、子どもが一人いる。僕たちはその頃流行っていたバンド ハイ・スタンダードとかハスキング・ビーとかだ───をちょろっとコピーしたりした。彼がギターで、僕がドラムだ。ベースはいなかった───つまり僕らは、そういうものにただ憧れていただけだ。
「本当に忙しいんだよ。というか、平和堂って潰れたんじゃないのか」
「名前と資本が変わっただけで、中身はおんなじままさ。イオン系列の二十四時間営業スーパー。最悪だろ」
「いいじゃないか。プライベート・ブランドのそこそこ美味くて安いビールがいつでもすぐ飲めて」
おいおい、と彼は言った。あのTシャツを着てたお前はどこ行っちゃったんだよ。
「いいか、冗談でもお前にはそんなこと言ってほしくないぜ。バドワイザーのロングネックを歯で開けてほしい」
「そんなことやったことないだろう」
彼はくつくつと笑い続けていた。じゃあお前は何しにそのイオン系列のスーパーに行っていたんだよと言いかけたが、つまらないような気がしてやめた。
僕のベッドの上に脱ぎ捨てられていたTシャツを拾い上げた。肩のところが擦り切れた、彼女の寝間着だった。自分からはしない、濡れた草のような匂いがしているのがわかった。そのまま洗面所の洗濯かごに投げ込む。
「それで何してるんだよ、お前は」
「何も。変わらないよ。元気です、ってお前のお母さんにも答えたさ」
「東京に出てこいよ」
「何が東京に出てこいよだよ、東北の僻地に飛ばされたくせに」
「出向だから栄転さ。そしていずれは戻ることになる。それと山形市は僻地でもない。河瀬なんかよりもずっと都会だよ」
受話器の後ろで、子どもの呼ぶ声が聞こえている。
「そうか。俺にはよくわからんな」
まあでもほんとにたまには帰ってこいよ。アライの結婚式も来なかったし。アライの同僚の、くそしょうもないバンドの余興、お前に見てほしかったぜ。ああいう時、お前がいないと退屈だ。タケムラも、フジワラも、何も言わずに普通に手叩いて見てやがる。また南中の裏の雑木林にエロ本探しに行って、パリパリになったエロ本お湯で戻して、湯気頭に浴びたりしような。あの「お清め」以降俺は頭がおかしくなったんだって、みんな言ってたぜ。
「何回目だよ、その話」
「そうだよ。だからまた新しい思い出を作ろうって言ってるんだ。伝説を!」
子どもの呼ぶ声が大きくなって、彼は、ごめんと言って電話を切った。
電話が切れた後ふと、タケムラやフジワラと別れて一人になってから、そのお湯をかけたポルノ雑誌を拾いに行ったことを思い出した。ポルノ雑誌はどこを見つからなかったのだった。
トイレが流れる音が聞こえて、彼女がトイレに入っていたことを思い出した。
「長かったね」と、スマホの画面をじっとりとした汗が濡らしていたのを、枕カバーで拭きながら言った。言った後で、デリカシーのない一言だなと思う。
「なんだかちょっと気分が悪くて」
彼女がお腹を押さえながらリビングに入っていく背中───彼女も、小さな星が散っているみたいに、ほんの少し汗染みが浮いている-----を追いながら、ふと、この女と暮らしているのだなと思い出すというか、時間軸がぐっと現在に戻ってくるときの揺れのようなものを感じた。
「クーラーが効きすぎてるんじゃないの?」
「ううん、そうじゃないの」
そうじゃなくても、部屋は冷えすぎているのだった。クーラーのスイッチを切ると、途端に部屋は静かになる。こんなに静かなのか、と驚くくらい。
今度は僕が膝枕をするつもりで先にソファに座ったが、彼女は立ったままだった。青い光が満ちていた。
「ねえ」
もし私が、あなたの人生の逸脱のきっかけになったとしたら?と彼女は聞いた。
点いたままのテレビが、また日本列島を映していた。その上を、白い雲が渦を巻きながら拡大しながら移動していた。
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