ラブソング
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ラブソングを作ろう 最初のコードは
明るくCかDにしたいのが胸の内
でも君を見ていると涙が出るほど熱くなって
EかBmしか 出てこないんだ くるり「ラブソング」
キャンパスに、奇祭のような音がこだましている。吹奏楽部のトロンボーンの音と、グラウンドで練習する女子ラクロス部の音が混ざって、学生会館に反響しているのだ。
窓ガラスが震えていた。そこに映った空は震えずにそこにある。
カップ焼きそばの湯を捨てようと部室から出ると、女の子が生垣に向かって俯いているのが目に入った。間抜けな色の夕方の日差しが、楕円の影を作っている。側溝に湯を注ぎ始めたところで、女の子が吐いているのがわかった。髪の毛をかきあげて、途切れ途切れに側溝に黄土色の液体を撒き散らしていた。
掠れた声で、み、見ないで、と言われて、自分が見ていることに気づいた。髪の毛のまっすぐな、小柄な女の子だった。側溝から、フライ麺の油臭い湯気が立ち上っている。慌てて目を逸らすと、乗り捨てられたスクーターのシートの上から、猫がこちらを見ているのと目が合った。猫は彼女ではなく、僕を見ていた。ざあ、と音がしたかと思うと、手の中が軽くなるのがわかった。
絡まった麺が地面に落ちていた。
◆
今のカップ焼きそばはそんなことにはならない。湯切りのための機構がすごくしっかりしているからだ。蓋をしっかり押さえておかないと麺がこぼれ落ちてしまうのなんて、もうずっと昔の話である。
そもそもどれくらい、カップ焼きそばを食べていないだろう。
ごめんなさい、と謝られたので、いや、と答えた。
大丈夫ですか?
大丈夫です。んん。ごめんなさい。
いや。ほんとに大丈夫?
女の子はまだ低い声でえづいていた。
んん、ん。
え、大丈夫じゃないじゃん。
大丈夫。ん、。
女の子はまた俯いて、口から粘ついた糸を垂らした。口元を隠していたけれど、長く伸びたそれが、側溝の網目をくぐって音もなく消えるところが見えた。
その目が何も見ていなかったのを、僕は知っている。地面を突き抜けて、地中深く、常闇を見るような丸い瞳だった。睫毛だけが上を向いていた。
水、と思ったけど、さっき生協で買ったのは発泡酒のロング缶だった。
水、買ってきますね。
女の子は手だけで僕を制していたけど、また獣のように低く喉を鳴らした。
猫の座ったスクーターの横を抜けて、生協へ向かう。足がもつれた。
◆
背中をさすると、ブラジャーの紐の形がわかった。骨のように硬くて、しっかりしていた。僕の胸の中が、荒い息をで熱くなっている。
短い、形式的な、口づけをする。
え、と妻が短い息を吐いて苦しそうにえずいた。
部室棟に戻ると、女の子はベンチに座り込んでいた。白い顔をして遠くを見ている。
すみません、ごはん。
ああ、大丈夫ですよ。
それ、片付けようと思ったんですけど。
緩い塊になった僕のカップ焼きそばは、食い荒らされて引きずられたように側溝にかかっていた。
また吐きそうになって片付けられなくて。
無理しないで。
僕がボルヴィックの蓋を取って差し出すと、彼女はすぐにそれを受け取って飲んだ。遠慮するかもしれないなと思っていたので、その無言の受理で、彼女が差し迫っているのがわかった。ゆっくり喉を鳴らした後、彼女はありがとうと言う。
ありがとう。ごめんなさい。気持ち悪く、なりましたよね。
大丈夫。気にしないでください。
僕は本当に全然大丈夫だった。少しも気持ち悪いなんて思わなかった。
はあ、とため息を吐く彼女の唇が震えているのがわかった。それは背中から伝わる振動だ。まだ、彼女の中が痙攣しているのが、外から見ていてもわかった。綺麗に揃った内巻きの髪の毛の先に、水滴が実っているのが見える。
グラウンドの方から、応援団の太鼓の音が聞こえていた。ハッ、ハッ、ハッ、と意味のない大声を出す声。
無理しない方がいい、と思いますよ。
◆
落ち着く、と妻は言う。撫でられてると、楽になる。
そっか、と僕は答える。これぐらいなら幾らでも。
手のひらから何か魔法の力でも出ているのかもしれないな、と胸の中で思う。それは僕の意識とは関係がない魔法なのだ。飼い慣らし、使いこなすことのできない魔術。
そろそろ起きなきゃ、と妻が呟く。野球部、練習し始めてる。
窓の外から、揃って肥大化した声が聞こえた。
起きて鏡を見ると、胸元が濡れていた。妻の涙だ。
歯磨きを終えてもう一度鏡を見たときには、その跡は消えていた。
テーブルの上の冊子をめくると、「おかあさんに比べると実感は薄いかもしれないけれど、僕の身体の半分はおとうさんの種でできているんだよ!」と言う胎児のイラストが目に入った。胎児の臍から細く伸びた線は、ページの端で切れていた。
赤ちゃんは、二人の愛の結晶です。
妻はトイレに篭ったきり出てこない。
何年?と僕は聞く。
何年?
一年です。経済の。
あ、じゃあキャンパス坂の上だ?
病院とか、行った方がいいですよ。
女の子の服の、肩の皺を見ながら僕は言った。丸くて小さな肩が、地味な色のニットに包まれていた。
病院か。
そうですね、と彼女は言う。たしかにそうかもしれない。
お水代。
いいですよ、そんなの。
でも悪いんで。
いや、本当に良いから。
でも。
じゃあ、もし次会うことがあったら返してください。
そう言うと女の子は、口の端を微かに歪めた。
笑っていた、のだと思っている。今も。
わかりました。次会ったらですね。
その女の子と、キャンパスの中で会うことは二度となかった。
僕が行っていたのは大きな総合大学だったし、会う確率は低かった。だいいち僕は大学にそれほど熱心に行かなかった。
それでも、大学に行くたび、その女の子の丸くて華奢な肩をうっすらと思い出していた。毎日である。華奢な丸い背中を、毎日毎日毎日。その女の子が暗い闇の底を見つめながら、そこに向かって胃液の糸を垂らしているところを。毎日。明るい昼の最中に生協で発泡酒を買って飲んでいるときも、研究室の鍵を閉めて夜の廊下を渡るときも。部室の横を通るとき、あの震える背中がぼんやりと浮かび上がるのだった。
女の子が去って行ったあと、スクーターの上にいた猫が側溝に寄って何か食べているのを見た。みんなが部室でその猫を可愛がっているのを見るたび、僕はそれを思い出していた。
◆
便座に向かってかがむ妻の背中を、もう一度撫でる。
ちゃんと父親になれるかな。
え?
ちゃんと、父親になれるかな。
優しいから大丈夫だよ、と、妻は途切れがちに言う。
妻の吐いた、昨日の晩御飯が、原型を止めずに水面にたゆたっているのを見た。吐き気がすれば、僕も自分が父親になるという実感が持てるのだろうかと、それを眺めながら思った。こんな風に違うことを思い出さずにいられたんじゃないか、と思った。
んんんん、と、もう何も残っていない胃を痙攣させながら、妻が大丈夫、大丈夫、と呟いていた。僕は身を硬くしながら、またあの部室棟の横の女の子のことを思い出している。撫でることのなかった背中を、妻の背中を撫でながら思っている。
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