テキストヘッダ

一瞬の光

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURSXp5YlZ3THZWUEk

「逃げろったってねえ」
 はははと恋人は笑った。「どこによ?」
 手の中の携帯電話が、逃げろ逃げろと言い続けていた。
 わたしは何だか結構冷静で、ああ死ぬときってこういう感じなんだなと思った。どうしたらいいんだろうと思いながらぼんやり携帯電話の画面を見たり、テレビの画面を見つめたりする。それはいつもとまるで同じ朝なのだ。気づいた瞬間は大きな音と赤い光に包まれていて、わたしという存在は一瞬で消えてなくなってしまう。
「ミサイル発射から、約八分が経過しました」とアナウンサーが告げた。関東から東北にかけてのほとんどすべての県が危険区域に入っていて、四分割された画面にそれぞれの県の空が映っていた。
 スマホのアラートが何度も何度も鳴る。恋人の分とわたしの分、二人分鳴る。やかましくてしょうがないので、わたしは携帯の電源を落とす。
「ヤバいね」とだけ恋人が言った。カーテンの隙間から、薄く光が漏れている。
 わたしが毛布を被っているのは不安だからじゃなくてただ寒いからだ。わたしは極度の冷え性で、寝起きの足の冷えで夏の終わりを感じる。まだギリギリ八月なのに、今年はやたらとスースーする。
 ちょうど昨日、「そろそろおでんが美味しい季節だねえ」「まだ早いでしょ」と話をしていたことを思い出して、口の中に大根の味が広がった。ああ、こういう時って最後の晩餐みたいなことしといた方が良いのかなと思ったけど、寝起きでお腹も減っていないしミサイルが落ちてくるまでに食べれるとしたら食パンくらいだ。しかも焼かずに。
 これってどっかにミサイル映る可能性あるってことかなあ、と言って、恋人はしばらく画面を凝視していたけど、飽きたのかすぐに寝転がってしまった。

 時計を見た。そろそろ準備し始めないと、電車に乗り遅れてしまう。
 恋人はソファに仰向けになったまま、薄く開けた目で携帯電話を見ていた。
 その姿が、何だか妙に目に焼きつく。

 わたしがのそのそと化粧を始めると、恋人が「会社行くの?」と聞いた。
 下地を作りながら「死化粧」と言うと、彼は「あはは」と力なく笑った。
「俺はまだ早いのでもう少しだけ寝ます」と言って、恋人は目を瞑った。
「ミサイル発射から既に十七分が経っていますが、まだ詳しい情報が入ってきておりません。対象区域にお住まいの皆さまは、地下や建物などの・・・」
 トーストを焼いて食べながら携帯電話でSNSを見ていると、「本来ならミサイルは10分程度で着弾」という情報が入ってきた。
 念のため会社のメールを見たけど、何の情報も入っていなかった。
 「いってきます」とまだ寝転がっている恋人に告げると、彼は目を瞑ったまま拳を高く掲げた。

 駅に向かう坂道を下る途中、今日までに返さなきゃいけないレンタルビデオのことを思い出す。まだ見ていない古い映画。アサコちゃんも見た方がいいよ、と恋人に言われたやつだ。
 死にかけている、遠い故郷に暮らすばあちゃんのことを思う。正月以来話をしていない。ばあちゃん、また電話するねと言った自分の声が蘇る。
 来月の三連休にある友達の結婚式のことを考える。この間出た別の友人の式のときは生理が被ってしまって、パッドなどを入れるポーチがないと不便だったことを思い出す。
 会社に着いてパソコンの電源を点けた後のことを考える。支給されているボロいパソコンの中がギシギシ言っている音が聞こえてくる。今日はメール処理よりも先に後輩の初プレゼン資料のチェックをしてあげないといけない。
考えなければいけないことがいくらでもある。恋人の靴を磨いてあげないと。爪が汚い。扇風機をしまいたい。夏のうちにカーテンを洗ってしまいたい。ミネラルウォーターを注文しなければ。
 肌寒くはなっているが、まだセミが元気に鳴いている。駅の周りには作り物みたいな木しかないのに、ちゃんとセミが居つくのだなあとわたしは毎年思う。

 駅のホームに立ってふとスマホを開くと、電源が切れたままになっている。
 わたしはなんとなく、携帯をそのまま鞄の中にをしまう。
 周りを見渡すと、いつもと同じように電車が行き来し、会社に向かう人たちがホームに並んでいる。多くの人がスマホを見つめていて、ちらほらぼんやりと線路を見つめている人や文庫本を読んでいる人がいる。
「ミサイル発射。ミサイル発射。建物の中、又は地下室に避難してください」
 もしあのやかましいアラートが今鳴ったら、ここはどんな風景になるのだろう。
 わたしの携帯は、電源が切れているので鳴らない。みんながパニックになって、ホームを降りる階段に押し寄せる中、わたしだけは電車に乗って、普通に出社するのだ。
 いつもだったらぼんやりスマホを見つめている電車の中で、わたしは思う。そう、これはいつも通りの日常なのだ。いつも通り、なにも変わらない、のっぺりとした日常なのだ。ゆっくり毒が回っているとして何なのだ?毒が回っていることに気がついたとして、手の施しようはあるのか?
 目的地の駅に着くとき、扉のガラスに薄く映っている自分の顔を見てそう思った。
 ひねもす、とても晴れた日だった。
 その日、わたしは帰りがたまたま遅くなった。家に着くと、もう家着姿になった恋人がそこにいた。
「ねえ」
「なに」
「携帯電池切れてた?」
「ああ」
「何回も電話したのに。心配するじゃん」
 アラートがうるさかったから。
 恋人は聞こえなかったのか、シャンプーなくなりそうだったから買ってきてほしかったんだよねとつぶやいた。
 わたしがスーパーで買ってきたものを冷蔵庫に入れ、料理の準備をしていると、恋人が「アサコちゃんってさ、料理するとき、全部こうやって使う物を先に出すよね」と言ってきた。
「え、普通そうじゃないの?」
「いや、前の彼女も母親もこんな風にしなかったよ」
 なんかアサコちゃんっぽいよね。でもこんなアパートのキッチンじゃ狭いじゃん。いや、いいんだよ。ははは。文句付けてるわけじゃないの。
 恋人はそう言いながら冷蔵庫から缶ビールを出して開ける。恋人がわたしの後ろにあるグラスを一瞬見たのを、わたしは見逃さなかった。恋人はそのまま缶に口をつけてビールを一息に飲んで、ああ美味しい、毎日飲んでんのに相変わらず美味しいな、ビールはと言った。
「キドくんさ」
 んん、と言いながら恋人はテレビのスイッチを入れる。
「わたし、妊娠したかもしれない」
 テレビから笑い声が聞こえた。
「マジか」
 ギリギリのところに置いていた玉ねぎが転がってシンクに落ちた。
 いやいや無理無理無理っすよー、という間の悪いお笑い芸人の声が聞こえたからか、恋人はすぐにチャンネルを回してニュース番組に切り替えた。ニュースは朝、わたしたちの頭の上を飛び越えて海に落ちていったミサイルの話題だった。

 国民の不安を煽り、国家の平和を脅かすこの卑劣な行為を、わたしたちは断固として許さない・・・不安・・・いつか落ちてくるんじゃないか・・・ミサイル迎撃システムは・・・アラートによって生じる混乱・・・経済活動に対する打撃・・・
 宇宙や地球の長い歴史から見たとき、わたしの人生というのは一瞬にすぎないという。
 たとえそれが一瞬のことだとしても、今朝のような間抜けな風景はどの家の中にもあっただろう。それをひとつひとつ繋いで行くのだ。今朝だけではなくて、死にかけている身内に会いに行ったり、友達の結婚式に出たり、恋人にひどいことを言って眠れない夜を過ごしたりする、そういう色々な人の色々な時間をつなげていったとして、それでも宇宙からするとやっぱり一瞬にしかならないのだろうか。
 眠っている恋人の隣で目をつむりながら、わたしは今朝鳴ったアラートの音を思い出す。まぶたの裏の暗闇に閃光が走って、自分と恋人が焼き尽くされる瞬間を思い浮かべる。
 どうか、と頭の中でつぶやく。どうか、と何かを祈りかけて、わたしは何も祈らないまま眠りにつく。

 朝、スーツに着替えながら、
「俺、頑張るよ」とキドくんは言った。
「今も頑張ってるじゃん」
「今まで以上に頑張るんだよ」
 そう言って、キドくんはわたしの借りたDVDを返すために早く家を出てくれた。
 駅のホームで、わたしはスマホを取り出す。黒い画面に一瞬無表情の顔がわたしが映った後、キドくんと言った北海道の海の待ち受け画像が写り込んだ。

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