テキストヘッダ

OUR ONE WEEK/木曜日

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1MRQRzrFvpb21OIa0XHbx-bawYIjTZJW8

木曜日

■サオリ
 朝からとてもイライラしていました。
 わたしは時々、ただすれ違った人や隣り合って座っただけの人から、イライラを吸い取っているんじゃないかと思うことがあります。街中のイライラを全部請け負っているのだと。それくらい理由もなくイライラしてしまう日があるんです。

 出勤前、人通りの多い駅の喫煙所の前に、赤ちゃんの乗ったベビーカーがぽつんと置かれていて、とてもびっくりしました。多分、母親が喫煙所で煙草を吸っていたのでしょう。赤ちゃんは笑っていました。わたしと目が合うと、手足をばたばた振って喜びました。
 無責任な母親に対して、ということだけなら理解してくれる人がいると思うんですけど、わたしはその無自覚で不細工な赤ちゃんにも、むしょうに腹が立ちました。何だか、まだ本来ならお腹の中にいるべきである小さな胚が、間違って外に出てきてしまっているみたいに思えたんです。
 それで、その赤ちゃんに向かって舌打ちしました。
 もちろん、普段はそんなことありませんよ。多分生理前だからです。
 赤ちゃんはわたしが舌打ちしてもまだ笑っていました。何が面白かったんだろう?あんな赤ん坊に、面白いか面白くないか判断できるとは思いません。ただ笑っていただけでしょう。
 それでもあの無自覚な笑顔を思い出すと、今でもまたイライラしてきます。

 と、こんな風にわたしは生理がものすごく重いんです。
 自分の生理が他人よりも重いとのだということに気づいたのは大学生になってからで、初めての恋人ができた頃でした。

「PMSっていうのがあるらしいよ」と、やさしいその恋人は教えてくれました。
 PMSというのは「月経前症候群」の略称です。Premenstrual Syndrome、というやつですね。生理が始まる前になると、肌が荒れたり、お腹の調子が悪くなったり、理由もなくイライラしたり悲しくなったりする。
 わたしはそのやさしい恋人の前で、何度も何度もみっともない姿を見せていました。
 人生で初めてできたどうしようもなく大好きな恋人だったから、というのも大きな理由の一つだと思います。でも、例えば彼が電車の中で他の女の人を目で追っているだけでものすごく傷ついた気持ちになったり、わたしの失敗した料理を苦笑いしながら食べる彼に「嘘つかないで」と理不尽に怒鳴ったり、シネコンで映画を観ている途中なのに座っていられないくらい気分が悪くなってトイレに籠ったり、とにかく自分自身でもとうてい理解できないような、意味不明な理由で彼を困らせてきました。
 彼は本当にやさしい人だったんです。だから、根気強くそういうわたしに付き合ってくれました。そして、男の人だから生理になる女の気持ちなんてわかるはずないのに、そうやってわたし自身でも気付かなかったわたしの病気を突き止めてくれたんです。

 これってすごくないですか?ものすごいことじゃないですか?
 未だにそう思うんです。あの人は、どうしてわたしよりもわたしのことがわかったのだろう。

 わたしは彼にそう言われてから、時々PMSを理由に大学の授業やバイトを休むようになりました。
 いや、そんな派手には休まないですよ?わたしは真面目なので、男の先生や店長にも「わたしはPMSで」ってきちんと説明をしました。「PMSっていうのは、いわゆる女の子の日の症状が重かったりその直前にも体調不良が続いたりするやつで」って。
 みんなすぐに、「ああそうなんだ、それは大変だね、無理しなくていいよ」って言ってくれました。

 一方で、同じ女である同僚や先輩たちからの目線は冷ややかでした。
 わたしが「PMSなんです」と説明すると、
「わたしは全然、血が出るだけだからなー」
「多少お腹痛くなったりするけど、立っていられないほどじゃないな」と、みんな遠回しにわたしが甘えているとでも言いたげなことを言うのです。

 どうして彼女たちは、わたしと同じ女で多少はその辛さをわかるはずなのに、こんな風に言わなければならなかったのでしょうか。
 どうして男たちは、わたしの痛みを想像して、わたしに同情してくれるのでしょうか。
 わたし自身も時々、「これはわたし自身が弱いだけなのかな」と思ったりします。他の人が耐えられている痛みに、わたしが耐えられていないだけなんじゃないか。わたしのPMSや生理なんかよりも、ずっと激しい頭痛や鬱の症状にやられているのに、気丈に振舞っている人がいるのではないか。
 だって、わたしだっていざ生理が始まって二、三日経ってしまえば、わたしはそのお腹の張る感じとか、タバコの臭いがする人が横に座っただけで舌打ちしてしまう気持ちとか、そういうのを全部忘れてしまうのです。

 わたしが見ている青と、他人が見ている青が同じ青なのかっていうことを、わたしは強く疑っています。そんなの、誰にも証明できないじゃないですか。みんなの見ている青が、みんな同じ青だなんて。
 こうして喋っているわたしの声だって、みんな聞こえ方が違うかもしれない。そして受け止め方なんてなおさらです。絶対同じはずない。そうですよね?わたしを「甘えている」と遠回しに揶揄したあの人たちと、同じように思っている人もいるやもしれません。
 例えばパソコンみたいに、わたしたちが有線ケーブルとかで感情や記憶のファイルみたいなものを交換できれば話は別ですよ。わたしは、わたしの自分の辛さを知ってほしいというよりも、逆に他の人たちの生理がどれくらい重いのか軽いのかを知りたいです。
 でもそんなことできないわけじゃないですか。
 でもでも、ムカイくんは、きっとわたしが時々おかしくなるのには理由があるんだ、サオリ自身の心がそういう風にできているのとは、まったく違うまた別の理由があるんだ、って思ってくれたわけです。

 PMSのことは、今は本当に信頼できる恋人か、伝える必要のある男の上司にしか話しません。そうしようと思ったわけではないのですが、気づいたらそうなっていました。そうやって、痛みがわかるはずない人たちにしか話さないということに嫌悪感を覚える人もいるでしょう。まあ仕方ないですね。
 でも、今日は何とか耐えたんです。デスクから立ち上がるたびにめまいがしましたが、なんとか一日乗り切りました。

 昼休み、ムカイくんから「日曜日会わない?」とメールが着ていたからです。
 わたしは心が浮き立ちました。今でもムカイくんのことが好きでした。いい感じになる人ができるたび、いつもムカイくんと比べてしまうのです。
「ミサイルとかテロとか無差別殺人とか、そういうニュースばっかりじゃん。俺たちみんな突然死ぬのかもしれないって思ったら、なんかどうしてもサオリに会いたくなったんだよね」とムカイくんは言いました。そんなことあるわけない、ただムカイくんがわたしに連絡をを取るための口実にしたとわかりきっていても、とにかくわたしは嬉しかったんです。

 不思議だな、と思います。楽しみなことがあると、辛いことも乗り切れる。立ちくらみで目の前に火花が散っても、何とか立っていられる。仕事がはかどらなくても、うまくいかなくても怒られてもなんとか頑張ろう、と思える。
 単純だな、と思いますか?わたしはむしろ、人間ってすごく複雑に出来ているんだなと思います。何もなくてもイライラすることもあれば、ちょっとした寂しさみたいなものを分け合えるだけで、すべてのことに耐えられる。
 ムカイくんとのメールのやりとりが昨日からずっと続いています。ムカイくんと一緒に楽しく過ごしていた、頭の中が空っぽな時代の自分が戻ってきた感じがしました。だらだらとした、終わりのない不毛なやりとり。
「サオリちゃん、空」
 仕事が終わって携帯電話を見てみると、ムカイくんからそんなメールが入っていました。
 オフィスのエレベーターを降りて、いそいそと外に出た後空を見上げると、煌々と輝く丸い月が浮かんでいました。
 ムカイくんが、わたしが月を見上げた瞬間を見ているかのようなメッセージを送ってきます。
「綺麗だね」
 同じ月を見ている。

 とにかくあと明日の仕事さえ乗り切れば、週末にはムカイくんに会える。
 そして、ほんの少しでいいから生理が遅れないかな。
 それだけ考えながら、家に帰りました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?