テキストヘッダ

はじめからなにもない

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1wuPF0_Pzzqe-T1UgIEz5IwefIaK2IM6J

 ぱちん、

 と音が鳴るのが聞こえると、あなたは掃除夫だ。閉店し、誰もいなくなった後のショッピングモールを掃除する仕事に従事している。昼間の喧騒が嘘みたいな、静寂に満ち満ちた店内の床を掃除しエスカレーターの手すりを拭き店中のゴミ袋を替えて回る。ショッピングモールにとってまさに、妖精のような存在だ。
 モップを携えたまま、昼間の喧騒の記憶すらないひんやりとしたロフト階に向かって、止まったエスカレーターを上っていく。
 薄ぼんやりとした暗闇の中に、かまぼこ板のようなステージが佇んでいるいるのが見えて来る。
 そしてその、霧のような薄い幕が張った場所に、マジシャンの幽霊は立っている。

 おお、あんたには俺が見えるのか?
 久しぶりだ!喋れるやつが来るなんて!ようようよう、嬉しいよ。なんてこった!

 マジシャンが

 ぱちん、

 と指を鳴らすと、指先からどこからともなくトランプが現れる。クローバーの7。マジシャンのいちばん好きなカードだ。

 驚かないよな。
 幽霊のマジックなんて。

 マジシャンの身体は半透明で、わずかに発光している。透き通った身体の向こうに、固まったマグマのようなどろりとした闇が広がっている。ショッピングモールは、郊外の広い敷地にぽつんと立っている。

 死んでしまってから、俺の袋小路はますます混迷を極めたことになる。
 売れなかったんだ。ちっとも売れなかった。結局マジシャンなんて流行らない時代なんだよ。みんな種があるって知ってる。誰もが騙されることを嫌っていて、真実だけを求めている。どんなやつでも、心のそこでは真実ってやつの正当性を信じ込んでいるんだ。真実なんて結局どこにもありはしないのに。馬鹿な時代だよ。
 だから俺は、こんな寂れたショッピングモールでしかショーをさせてもらえなかったわけだ。そして売れないまま死んだ。
 それにしたって、死んでからもずっとここに張り付いていなきゃいけないのはどうしてなんだろう。神様っていじわるだよな。マジシャンの地縛霊なんて、あまりにも残酷だと思わないか?

 マジシャンは

 ぱちん、

 と魔法使いみたいに指を鳴らす。手のひらからトランプが吹き出す。噴水のように。五十二枚どころではない数のカードが空に向かって散らばる。最後のカードが地面に落ちる、寂しい音が聞こえる。

 ほら。
 驚かない。

 トランプを出し切ったマジシャンの指先は、ロフトを吹き抜ける風に頼りなくたゆたっていた。指先が光の束になってほどけ、空に向かって散らばったカードたちの幻を追いかけるみたいに、薄く立ち上っていく。

 じゃあこういうのはどうだ。
 お前を呪い殺す。
 生きたまま臓物を全部取り出して、そこらじゅうの壁に塗りたくっておくんだ。恐怖と苦悶に歪んだお前の表情を眺める。狂気の道化師、ここに現る、だ。それくらいやらないと誰も驚いてなんてくれないよ。

 マジシャンははあ、とため息をついた。 

 でも、そんなのできないんだ。結局マジックには種がある。俺たちはあくまでただの嘘つきで、その嘘を美しくついてみせるという点でマジシャンなんだ。魔法使いや呪術使いではない。

 マジシャンは着ているジャケットの襟元を、指で弄ぶ。

 俺のマジックは結局地味なんだよ。ビジュアル的な派手さがない。大がかりなセットも、マジックを手伝ってくれる絶世の美女もいない。派手なだけがマジックじゃないんだけどな。でも、マジシャンとして名を馳せようと思ったら、派手じゃないといけないんだ。

 どこかで地響きのようなうねりが聞こえる。巨大なショッピングモールは完全に眠ることはない。明かりが、モーターが、人の息遣いが、完全に途絶えることはない。

 俺のマジック、もっと見たいか?
 見たいだろう。見たいはずだ。見たくてこんなところまで来てくれたんだろう?この後どんなことが起きるのか見たくないんだったら、お前はそんな顔してそこにいないもんな。
 いいだろう。俺の一番得意なマジックだ。
 力を、抜け。

 ぱちん、

 ほら。
 あんたは掃除夫だ。は、と気づくと、生まれた時から物言わぬ掃除夫だ。家族はいない。あんたには必要ないんだ。だから生まれたというよりは、発生したという方が正しい。あんたは発生したんだ。このショッピングモールに、突然発生した、過去を持たない記憶だ。
 あんたの記憶は掃除の記憶だ。床に貼りついたガムをこすって剥がす感覚、流れているエスカレーターの手すりに雑巾を押し当てて汚れを取る感覚、ゴミ袋をぱんと広げてゴミ箱に取りつける感覚。ほら、手に感覚が浮かぶだろう、それがあんたの全てだ。それ以外は何もない。
 ほら、当たってるだろ?不思議だろ。徐々に具体的になっていく。
 日々。あんたの日々は、文字通り流れるような日々だ。ただ夜の二十時に起きて歯磨きをして六枚切りの食パンを焼いて食べて支度して家を出てショッピングモール中を掃除して朝の八時過ぎに帰ってきて三百五十円の海苔弁を食べて風呂に入って歯を磨いて寝てまた八時に起きる。何が楽しくてそんな日々を送っているのか、と周りの人々は時々訝しむ。

 そこでこれを読んでいるあなたもそう思う。

 マジシャンはステージを行ったり来たりしながら続ける。そうすることで、ステージの上を自分のものにしているのだ。。時々、先ほどトランプを発生させた指先を、空やあなたに向けながら話す。その指先の発光は、ほんのわずかな時間そこに残って、線になってつながる。

 判子で押したみたいに、あんたの一日は同じだ。部屋にはベッドがぽつんと置かれているだけで、本もテレビもパソコンもない。携帯電話だけは、会社とやりとりするために握りしめている。
 あんたは勤勉だ。汚い場所でも嫌がらない。どれだけ時間がかかっても、最後までやり切る。このショッピングモールのサウスコートの男子トイレが他のトイレに比べてぴかぴかなのは、あんたの受け持ちだからだ。広すぎるペデストリアンデッキを、無駄な動きなく掃除できるのは、今のところあんただけだ。
 このショッピングモールにあんたを派遣している清掃会社は、あんたをとても買っている。あらかじめプログラムされたロボットみたいに、あんたは言われたことをきちんとこなす。反対に言われたこと以外はできないといういささか融通の利かないところはあるけど、言われたことを文句も言わずきちんとできるということは、今の時代においては一つの才能だ。
 そうやってひとしきりあんたはえらいと褒めた後、ぼんやりとした表情のまま毎日同じ安い海苔弁を携えて帰っていくあんたを見てみんなが思う。
 何が楽しくて、そんな日々を送っているんだろう?

 ぱちん、

 ぼうっと突っ立っているあなたの顔を見つめて、マジシャンは言う。

 すまんすまん、言っているこちらが辛くなってきたよ。
 どうだろう。当たり過ぎていて寒気がするだろう?
 種も仕掛けもございません。
 ——これが俺の得意なマジックだ。

 あなたは驚いているのだろうか?それとも、呆然と立ち尽くすしかないのだろうか。ただ夜は更けていく。地上の光はなくなり、月とロフトのささやかな明かりだけが、ステージを照らしている。

 驚かないよな。
 わかってるんだ。

 マジシャンは俯いて、手のひらで額を押さえる。

 わかってるんだ。こんなんじゃ驚かないって。マジックショーとしては地味すぎる。俺とあんたが共犯者なんじゃないかって、誰もが疑うだろうよ。
 でも、俺にはこれしかできないんだよ。

 マジシャンは小刻みに震えている。
 半透明の身体から、完全に透き通った涙をぽろぽろこぼしている。
 あなたはそれを、月の光の反射にきらめく輝きで知る。しずくはステージの板の上にこぼれて消えてしまう。

 きっと、たった一度でもいいから誰かが心底驚いてくれれば、俺は成仏できるんだよ。それ以外何がある?こんな馬鹿みたいなターバンと顎髭を付けたままショッピングモールのショースペースに憑いてる地縛霊なんて、それしかないじゃないか。
 すごいな、どうして?不思議だわ、魔法みたい!この世にこんなことがあるだなんて!
 誰かがそう言ってくれれば終わりなんだよ。でもそれは多分嘘じゃだめなんだ。
 助けてくれよ。

 ステージの上の彼は、鼻をすする。
 涙が浮かんでいるかどうかはわからない。怒っているようにも思える。途方に暮れているようにも。

 わかったよ。とっておきのやつを見せよう。

 マジシャンは気をとりなおしたように咳払いをすると、折りたたまれた薄っぺらな黒い紙を胸ポケットから出した。ぱん、とはためかせるとそれは、大きくてしっかりした箱に姿を変える。当然あなたは、それくらいでは驚かない。平面的な宇宙のような漆黒の箱が、空っぽの音を響かせて地面に落ちた。

 これは俺の一番のマジックだ。決して派手なマジックではないが、考えれば考えるほど不思議なマジックだ。お前もだんだんおかしな気持ちになってくるよ。お前の胸に、黒くて取れないわずかなシミを残すようなマジックさ。
 いいか、ここに入った俺が消えてしまう、なんて生易しいマジックじゃない。自然のルールがひっくり返ってしまったみたいに感じること請け合いだ。
 俺が入ったら、蓋を閉めてくれ。そして、中から俺がぱちんと音を鳴らして合図したら、蓋を開けていい。いいか、

 ぱちん、

 と音がするまでは絶対に開けるな。これは門外不出、俺の生涯を賭けた——もう死んでるなんて言うな——一世一代の奇術だ。俺もそれなりの覚悟を持ってやるんだから、お前の方もよろしく頼むよ。
 もし途中で開けたら、世にも恐ろしいことになる。箱の中に吸い込まれて帰れなくなる。想像を絶するような痛みで死ぬ。この月夜が永遠に明けなくなる。みんなこのしけたショッピングモールから離れられなくなる。
 わかったな。

 マジシャンは箱の中に入っていく。

 さあ、蓋を閉めてくれ。
 
 あなたは膝を抱えているマジシャンの入った箱の中を見下ろす。マジシャンの身体は細く、箱は意外に大きいので、箱は思ったよりも深く見える。黒い夜に、もう一重深くて黒い夜が現れたようだ。

 いいか、何が起こるのかよく見てろ。その穴が開いているみたいに虚ろな目で。

 蓋が閉まり、マジシャンの姿は見えなくなる。ごそごそと身をよじるような音が聞こえた後、海に潜る前みたいに深い深呼吸の音が聞こえた。

 種も、仕掛けもございません。

 そして辺りは、暗闇と静寂に包まれる。


※こちらの小説は、公開済みの「The Magician」の大幅な加筆修正です。  よろしければそちらも御覧ください。

https://note.mu/horsefromgourd/n/n0bddc98abf98

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