地図たち
※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1sMhTelo-gD1Xqoiy7eO0AeRxfLoyMetO
■女
卵の甘い匂いが鼻先をかすめる。
クレープも死ぬのだ、と手の中のゆるい感触に思う。食べないクレープを持ったままぼうっと立っているのが恥ずかしくて、蛍光灯の明かりの下から外れる。カップルがその場でクレープを食べ、ゴミ箱に紙でできた持ち手を捨てて去っていく様を、数組眺めた。どれも同じに見えた。
やがてクレープ屋も、お金やクレープを受け渡しする小さな窓を閉めてしまった。髭の生えたクレープ屋が、どこかの扉から出てきて私に声をかけてくれるのを小さく期待していたが、気がついたらそこから薄く漏れていた明かりも消えてしまっていて、その広場にいるのはどうやらもう私だけのようだった。
クレープは冷たく力なく折れ曲がっている。完全に死んだ、と私は思った。
クレープを食べたいと言ったのは、彼だったはずだ。
私たちは道に迷っていた。彼はスマホを持っておらず、グーグルマップが使えない。だから私が地図を見ていた。平たい線画の上を、青いマーカーになった私たちが滑るように移動し続けていた。私たちは出来の悪いコマ撮りアニメのように、道の上をずれ続けていく。時々青いマーカーが突然ビルを示す矩形にめり込んだりした。その度に私がスマホを空に掲げてみたり、指でつついてみたりするのを、彼はにやにやしながら眺めていた。
これだからこいつは。と思った。でもそのあとが、心の中でさえ続かない。これだから、これだから、これだから。これだから何なのだろう。目的地の方向とは微妙ずれた方角を向いて進み続ける青いマーカーを追う。時々彼は、見て見てあそこに変な銅像が立ってるよとか、急に観光地化された街って何故か絶対軒先で甘栗売ってるよねとか、どうでも良いことを言った。
何を無理しているんだろう。さっさと投げ出してしまえば良いのに。こんな人とはこの場で別れて、今やらねばならないことも全て投げ出してしまえば良いのに。
青いマーカーは、細い道幅の中を小刻みに揺れながら進んで行く。
ぐるぐると同じところを巡り続けているうちに二度、このクレープ屋の前を通った。一回目は「美味しそう」と背中側から聞こえただけだったが、二回目に通り過ぎた時、彼は遠くから私の名前を呼んだ。
「いったん腹ごしらえしようよ」
長い列だった。まあ、道に迷っているのは私の責任でもあるし、落ち着いてゆっくり地図を眺めたい気分でもあったので、渋々承諾した。剥き出しの広場にも関わらず、あたりには甘い匂いが充満していて、私は胸が苦しくなる。
よくよく考えたら、私はこういう屋台みたいなところに並んで買うクレープを食べたことがなかった。甘い物が好きではないからだ。それでもクレープというものの、無闇矢鱈に甘くて食べがいのある感じを心得ているのはどうしてだろう、と思った。遠くに見える軒先の看板に、「チョコ」だの「生クリーム」だの「いちご」「バナナ」だの、丸い書体で書いてあった。うまく注文できるだろうか、という不安がよぎる。
ふとスマホの画面を見やると、青いマーカーが消えていた。
どこに消えやがった。
私がスマホをひっくり返したり振ったりしていると、彼は知ったような顔で「そういうのって今、GPSとか磁気センサーとかが付いてるから、そんな風にしなくていいんじゃないの」と言いながら、ひょいと画面を上から眺めた。
思わず、うるさいな、と私はつぶやいてしまう。自分の口から出た言葉じゃないみたいだった。
うるさいな、お前。何もしないくせに。これだからお前は。
随分長い間、こういう口の利き方をしていなかったな、とはっとなるような感じだった。彼を嫌な気分にさせても何の得もないのに、どうしたんだろう。
彼はしばらく黙って、私の言った言葉を噛みしめているみたいだった。
クレープ屋の窓が少しずつ近くなっていく。
「ちょっと並んでてよ」
彼は私のスマホを取り上げると、ふらりと列を外れてビルの角を曲がってしまった。煙が、すっと目の前で消えるみたいな身のこなしだった。スマホを眺める丸い背中が遠ざかるのを見て私は、あ、と声を出した。
それで今に至る。
私はクレープなんて食べたくない。
◆男
どこかで誰かが鐘を鳴らす音が聞こえた。古い歴史のある街だからか、大小問わずところどころに寺社仏閣がある。林に囲まれた小さな社で、半ズボン姿の少年たちが遊んでいるのが見えた。そのうちの一人が大きく足を振り上げて靴を飛ばすと、靴は社を囲む雑木林の樹上に消えた。靴が戻ってこないことに、子供たちは異様なくらいに大きな声をあげて笑い合った。
見ると、どの子も片方の靴がない。少年たちは僕の方を指さすと、片足でホップしながらこちらに近づいてきた。
何だか狐に化かされているみたいだと思って、来た道を戻る。
こんなものに頼るから道に迷うのだ。
青いマーカーは地図上の線を無視するように、瞬間移動し続けていた。
青いマーカーは当てにならないので無視して、地図だけに注目をする。左手に「青麦商店」という小さな雑貨屋か何かがあるのを見たので、小さな画面の中にその文字を探す。指先で地図を軽く撫でると、地図は思ったよりも大きくスクロールして、瞬間移動する青いマーカーすら届かない空白の場所へと移動した。
データを読み込んでいるだけと思ったが、待てど暮らせど画面の中は空白のままだった。先ほど指で撫でたのとは逆方向、つまり地図を元の位置に戻そうとしてみたが、やはり元来た道も消えてしまっている。
そして、青いマーカーだけが画面の真ん中に鎮座していた。
こんなものを見ながら歩く女について歩いていたなんて、自分でも正気の沙汰とは思えない。
観光地とは言え、一本細い道を入ってしまえばただの住宅街だ。それどころか先ほどまで二人で歩いていた舗装された街路と違ってひび割れたアスファルトが続いているだけなので、余計にしみったれて見えた。
どこかから石鹸の淡い香りがした。それは夜の匂いだった。民家の窓のカーテンが、わずかに漏れる薄いオレンジ色の明かりに縁取られているのを見て、もうすっかり夕闇の時間なのだということに気づく。
と、手の中の彼女のスマホが光り、震えた。「公衆電話」と書かれていた。
向こうが話し始める前に、こちらからまくし立てる。今日初めて出す声みたいだ。
「どうせ、地図も読めないの、男のくせにって思ってるんだろ」
僕は喋れば喋るほど卑屈になっていく。歩きながら言うと、目に涙が滲んだ。受話器からは何も聞こえない。
「わかってるよ。これだからこいつは、って思ってるんだろ。これだからこいつは仕事もない。これだからこいつは面白い小説が書けない。これだからこいつはセックスも下手。これだからこいつは言うことも為すことも全てつまらない」
息が苦しい。
「何でこんなんと付き合ってんだろうな、って思ってんだろ」
何が僕をこうさせているんだろう、と僕は思う。突き動かすみたいな言い方よりもっと柔らかい言い方で、何がどういう風に僕をこういう人間にして、こういう人生を歩ませているのだろうと。画面を見ながらコントローラーを持って僕を動かしているやつがいる、という方がしっくり来る。
「ここが旅行先じゃなかったら別れやすかったのにね」
あぶねえ、という声が聞こえた後に、僕は衝撃を受けて倒れこむ。気をつけろや、兄ちゃん。太った男はそう言って去っていった。
僕は言ってしまってからはっとする。別れ、という言葉を自分から持ち出してしまったことが、これからどんな結果を生み出すか想像して。
拾い上げると、スマホの画面は地図に戻っている。スマホの画面を斜めに切る、まっすぐな道の上。スマホの中の青いマーカーは、先ほどあれほどせわしなく動いていたくせに、今度は画面の真ん中で静かに佇んでいた。
●地図
何もない。
そこには何もない。
何もないのに。
何もないよ、と言いたい。それはあなたたちが勝手に作った線でしょう。これは私にはただの図形の集まりだ。
ループする平面の上で、あなたたちが勝手に線を引いただけ。
私は爪で平面の上をなぞる。平面の上に、白い傷で線ができる。
無駄なことは止めなよ、と私は思う。何にもならないよ、と思う。自分の居場所を線の上にプロットして、何かわかったような気になるのは止めなよ。
ひとつはクレープを持ったまま微動だにしない。
ひとつは何もない場所で消えたり現れたりしている。
そもそも地図と地図は同じ平面上に存在していないので、何をどうあがこうと二人が再び出会うことはないのだ。
二人だけではない。誰とも。
わかりあうとはなんだろう、と平面を見下ろす私は思う。
わかりあうことがあるとして、それがなんだろう。
点が重なることがあればいいのになと、二つの点を見つめながら私は思う。心の底からそう思う。けど。
私はまた、平面の上に新しい平面を敷く。
点たちは白く塗りつぶされる。
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