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あざらしをつくる

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1a5OYUp8Uhk7F2G9yd59qIawKPrk2Se0D


 初めてあざらしを作りたいと思ったのは、中学生の頃でした。
 修学旅行の途中で行った水族館で、氷の上に寝転がるあざらしを見たときにそう思ったんです。
 つがいなのか親子なのか、はたまた兄弟なのかわからないですけど、二頭のあざらしは、他人同士とは思えない距離で寄り添って眠っていました。ガラスの中の四角い世界で。いい夢でも見ているみたいに、気持ち良さそうに目を瞑って。二頭とも鼻だけで息をしていて、相手が吐いた空気を、もう片方が吸っているみたいな、規則正しいリズムでした。空気をゆっくりと吸い込んだり吐いたりすると、流線型の身体、あれって毛とか生えてるんですかね?遠目で見ただけではなんかよくわかんないですよね、流線型のその身体が、風船みたいに膨らんだり縮んだりするんです。
 この二頭のあざらしは、ずっとここで生きて行くんだ。どこかからやってきて、この中で生きて行くんだ。それがあざらしにとって長いのか短いのか、私には全くもってわからないですけど、私があざらしならちょっと切ないかなあなんて思いました。勝手ですよね。でもそう思ったから仕方ないんです。水族館はどこにいてもずっとモーターだかタンクだかが動く低い音が聞こえていて、この音は実は、言ってしまえば水族館における原初であり永遠と同義なんですけど、結局本当の海にあるような静寂はここにはないのだな、と思いました。そんな基本的なものですらここにはないわけです。この二頭のあざらしは、この水族館で生まれたのか、それとも海で生まれてここに連れて来られたのか。ここで生まれたのと海で生まれてここにいるのと、どっちが辛いだろう。私なら?どう思う?張り付いていた窓に残った私の吐息の跡まで覚えています。誰かが残した指紋が浮かび上がったその隙間に、二頭の哀れなあざらしが眠る姿が見えます。辛い、辛くない、辛い、辛くない、辛いかもしれない・・・。

 正確に言うと、作りたい、じゃなくて、作る、なんですけど。ああこれ、私、作るな、って。


 嵐の音に慣れ始めていた。雨と風と波。その低いうなりのような音に重なって、シーツが擦れる布擦れの音が聞こえるのがわかる。


 でもそんなのほんのつい最近まで忘れてたんですよ。高校ではデッサンばかりやっていたからかもしれません。いざ大学進学をする段になって、ただなんとなく立体造形を選んだんです。本当に・ただ・なんとなくです。まあ、もうありもしないものをありもしないように作るのは嫌だという気持ちは、確かにありましたけど。平たい画面は嫌だ、私は触れるものを作ろう、なんて。漠然とそんなことは思っていたような気がします。
 でも、いざ大学に入ってみたら、土も石膏もほとんど触ったことのない自分が、どうして立体造形なんて選んでしまったんだろう?と思いました。土も木も、最初は生きていると感じられなくて。紙の上に線を引いているのと全然変わりませんでした。それでもやっぱり、何か作りたいという想いの、ぼんやりとした輪郭のようなものはありました。熱を放つ輪郭です。それに導かれるようにして、霧の中を歩いてここまで生きてきたような気がします。今思うとそれって、あざらしの形をしているんですよね。
 でもそんなの、まぼろしかもしれない。ただ私はこういうことしか出来ないだけ、いつの間にか細くて長い橋を選んで渡り始めていて、もう後戻りできないくらいのところまで来て初めて、ああ、この心の中にあるのは全部まぼろしなのかもしれない、なんて思って足がすくんでしまっているのかもしれない。
 そしたら、先輩の木が、実習棟に転がっていたんです。


 それは海で拾った流木だった。
 連休中に、車で東北を旅した。東京からまっすぐ北へ向かい、新潟の海に突き当たった後ずっと、海沿いを走っていった。海にも色々な海がある、と思った。なぜか今まで、太平洋側の海の方が広くて晴れていて素敵だと漠然と思っていたけど、全くもってそんなことはなかった。延々と走っていると、ふとどこを走っているのかわからなくなるような海だった。まるで動くベルトコンベアの上にいるみたいなのだ。どこまでも続いていそうな気がするのだけど、あくまでそんな気がするだけ、という海岸線だった。あなたずっと同じ部屋の中をぐるぐるぐるぐる走っていましたよ、と言われたら信じてしまったかもしれない。海という名の、幾何学的にまっすぐな線に平行して走っていただけだ。
 山形と秋田の県境辺りの海沿いを走っている最中、嵐がやってきた。
 止むを得ず宿をとって、嵐が過ぎるのを待った。嵐は僕をねめまわすみたいにそこに留まった。二日が過ぎ、嵐は力尽きたみたいに温帯低気圧に変わり、やがてしぼんで消えた。
 二日間泊まった安宿の外に出てみると、すぐそこが海岸だった。少し波が高くなったら、この宿はひとたまりもないくらい傍である。宿に入った時、夜だったから気が付かなかったのだろうか。空気は白く澄んでいて、空には何もなかった。
 何も、である。
 あらゆるゴミの散らばるその海岸に転がっていたのが、その流木だった。太くてたくましい流木。木材の破片や割れたガラスの瓶などの死んで魂を失ったゴミたちの中にあってそれは、生きているとしか思えないオーラを放っていた。

 本当は青森を抜けて本州の東側に入り、太平洋側を走って東京まで帰るつもりだったけれど、嵐のせいで足が止まった二日間のせいで、来た道を引き返した。そろそろアルバイトに顔を出さないと馘になってしまう。やはり空には何もなく、海もどこまでも続いているのに、四角い部屋の中を走っているみたいだと思いながら東京に帰った。帰りの車は、その流木の重みで行きよりも少し低く沈んでいた。


 どこ行っちゃったんですかね。あの木。

 さあ。まあ自分ではどうしようもなかったしね。よく考えたら。俺は鋳物しかやったことないし。なんであんなもの拾ったんだろう、というのは確かにあるよ。まあ立派な流木だったし、誰か持って行っちゃうよね。彫刻棟にあんなもの置いとくのは、サバンナの真ん中にハンバーグ置いてるみたいなもんだから。

 あんな大きな木なのに?

 そう。あんな大きな木なのに。

 もしかしたら、海に帰ったのかも。

 はははと笑いながら、確かにあんな大きい木を盗む奴なんているだろうかとも思う。


 ごう。まるで相撲取りが相手のまわしをとって寄り切ろうとするように、風が強い力で部屋を吹き飛ばそうとしていた。海からの風を遮るものがなにもないので、建物は少しずつ地面から刮げかけているような気すらする。

 シーツに象られた彼女の流線型が、僕の指を導いていく。頭がぼんやりとしていた。まなうらに、彼女が水族館で見たというあざらしの姿が思い浮かんだ。その手首を、彼女の湿った手が掴む。

 ほら、先輩、触れますよね?私のこと。これってめちゃめちゃ不思議なことだと思いませんか?私がいて、先輩がいて、先輩も私も、お互いのことが触り合えるんです。当たり前じゃん、こいつおかしいんじゃんって言われるのわかってるから、普段言わないんですけど、先輩はわかってくれますよね?すごく不思議なんですよ。私がいて、先輩がいて、先輩も私もお互いのことが触り合えるということは。ただ単純に一足す一は二みたいな話ではなくて、私がいても先輩はいないかもしれないし、私も先輩もいても、先輩だけは私のことを触れないかもしれない。


 ガラスの中のあざらしが、僕の方を見ているところが浮かんだ。もちろんガラス越しにだ。眠りから覚め、首だけをこちらに向けている。その瞳は、迫り来るような楕円の闇だ。

 わかるよ。

 だから、だからですよ。わかりますか?本当にわかってくれますか?私が話したことも触ったこともないあざらしをただ見て、私はあれを作る、と思ったあの感じが。海のどこかからやってきたあの木じゃないと駄目な理由が。私が言いたいのは、先輩本当にありがとうということなんです。ここに連れて来てくれて。私の言うことを理解してくれて。私があざらしを作る行為におけるとてつもなく重要な役割を担ってくれて。私はあざらしを作ります。こういうのが運命って言うんですかね?これが運命なら、すごく素敵だと思いませんか?

 どうだろう。

 がん、と窓に何かが当たる音がした。その音を合図に、風の強さがいや増す。ひびくらい入っていてもおかしくない音だったが、気にしなかった。
 ここに来る途中、彼女は車の中でほとんどしゃべらなかった。口調はとても冷静だけど、興奮しているのかもしれない。

 だから先輩、そんなに後ろめたそうな顔しなくていいですよ。なしくずし的にこうなったんだとか、ここまで連れてきてもらったから仕方なく抱かれてたんだとか、そんな風に思わなくていいです。私にはわかります。明け方には嵐が過ぎていて、白くて立派な木が浜に流れ着いています。あざらしづくりはもう始まっているんです。先輩は共同制作者です。海も木も水族館も先輩も、みんなであざらしを作るんです。というかもう作り始めてるんですよ。先輩。先輩があの木を拾ってきた時からもう始まってるんですよ、あざらしづくりは。
 そうですよね?


 変な夢でも見るだろう、と思って眠ったが、何の幻も現れなかった。
 僕も芸術家の端くれだが、彼女のような天啓が降りてきたことはない。そうすぐに降りてくるものではないからこそ天啓なのだろう。
 僕は天啓を待っていたのだろうか?

 朝起きると、彼女はベッドからいなくなっていた。天井の砂模様もシーツの形もカップの底のコーヒーの染みも、全部何かのメッセージのように見えるような気がしたけど、ただそんな気がするだけだった。
 窓を開けると浜の匂いがした。前と同じように空には何もなかった。ぼんやり窓を眺めていると、スカートを翻す彼女の小さな身体がゆっくりと浜を横切っていくのが見えた。立ち止まって何かを取り上げ、見つめていた。


 彼女の作ったあざらしは、小さな賞を獲った。現代芸術界隈ではそこそこ名の知れた賞だが、そんなの一般人は誰も知らない。一人の人間があざらしを作ったところで、社会に何の影響も及ぼさない。そしてそれは、僕にはやはり、ただの流木にしか見えなかった。


 それからも僕は、細々と作品作りを続けている。ただ漫然と、作り続けている。無名のまま。傍で美術とは関係のない仕事をしてお金を稼いでいる。

 彼女は今は結婚して、子どもが二人いるのだという。もう鑿を木に当てることはしていないと、風の便りで聞いた。

 あざらしづくりは、いつの間にか始まったのと同じように、いつの間にか終わったのだろうか。


 秋ごろ、あの海岸にあざらしが迷い込んだというニュースを新聞で見た。保護されたあざらしが、太い木の根のように岩場に這いつくばっている写真が掲載されていた。
 近くの水族館で保護されたというので見に行ったけれど、バックヤードで治療をしていて公開していないということだった。
 彼女が言っていた通り、水族館はどこも低いモーターの唸り声が聞こえて、それは水族館における原初であり永遠だった。バックヤードという、どこか暗くて湿った響きを持つ場所で、弱ったあざらしが眠っているところを想像した。四方を、ガラスではない壁に囲まれて、あざらしがくゆる命の火を燃やしているところを。

 あの宿はもうなくなっていて、風力発電のための風車が数基その辺りに建っていた。風も吹いていないのに、風車はくるくると回り続けていた。
 浜は綺麗で、何も落ちていない。
 家に帰ったら何を作ろうか、と考えながら砂浜を歩いた。波打ち際に、ぴらぴら光っている貝殻の破片が転がっていた。

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