ふとした
※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1A0ggMkfw1CdyfGHdoCNuC2z9DOCWbQOl
新曲を出します!と、アーティストがYouTubeのURLを貼り付けて宣伝しているとき、軽い気持ちでそれを聞いてしまっていいものだろうか、と、いつも結構悩む。
忘れられない音楽の思い出が、たくさんある。
漠然と常に辛かった十代の終わりくらいに、部屋を真っ暗にして再生ボタンを押したペイヴメントの「Slanted and Enchanted」とか、スターみたいに思っていた先輩がコピーしたtoeの「グッドバイ」とか、すごく好きだった人にフラれた後、実家の傍の川原で聴いた原田郁子の「Drifter」のカバーとか、つい去年のアルバム再現ツアーの最後で新曲として披露されたくるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」とか。いずれも、その時の暗闇とか、悲しかった気持ちとか、色のついた照明があちらこちらに落ちている風景などが、何度聴きなおしてもまなうらに蘇る。
YouTubeの三角ボタンに指をかけたまま、どんな曲が流れてくるかもわからないわけだし、出会うための心を整えるというのも間違っている話かもしれないなと思いつつも、いやいやそれでも本当に、こんな風にして出会ってしまって良いものなのだろうか、と逡巡する。もしかしたら人生を変えてしまう可能性を秘めた、運命の曲かもしれないのに。
音楽だけではない。
ものすごく好きな作家の新刊を前にして、いつも同じようなフラットな気持ちでその本と接する、ということが、どうしても自分には出来ない。
世のなか中の本読みに「ええー」と言われてしまうかもしれないけれど、本を読むにあたって、自分の気持ちがすごく重要である。もしかしたら、中身よりも自分のこころもちの方こそが、自分にとってのその本の価値を決めているかもしれないというくらいに。忙しさに心を預けてしまっているときは、難解なSFや学術本は頭に入らない。心に余裕があって、さてこれから読むぞ、という時に短編集や随筆では物足りない。こんなに悲しくてやりきれない気持ちのときに、こんなに悲しい本は読めないと思う日もあれば、こういう気持ちだからこそこの本が読めるのだと思う日もある。ただなんとなく読み進めている本を手に取ることもあるけれど、この疲れた頭では人生が変わってしまうかもしれないような一文を見逃してしまうのではないか、という不安と付き合いながら読むわけだから、やはり文章が頭に入ってこない。
一緒に住むあの人に「邪魔だからどかして」と怒られてばかりだけど、買ってまだ読んでいない本を目に付くところに並べておきたいのは、ふとした自然な瞬間に改めてその本と出合い直せるようにしておきたいからだ。
色々なことにいつでもアクセスできるようになって、そういう「ふとした瞬間」との出会いが、減ったようにも思えるし、増えたとも言えるような気がしているし、いや別に全然変わってないのかもしれないなと思う。
自分はどれくらいのことを見落としているのだろうと、ふとした瞬間に不安になる。いつの間にか皿の上の料理を食べ終わってしまっていたり、ただ物語の筋を追っているうちに映画が終わってしまっていたり、する。本当はもっとちゃんと出会わなければならない出会いを、自分はどれくらい浪費してしまっているのだろう。
山形ももう今年は雪が降らなさそうだな、と毛布を干しながら自分も陽光を浴びて思う。ついこの間まで、あれほど猛然と降り注いでいたあの一粒一粒が、どんな軌跡を辿って地面に落ちていたか、ひとつとして知らないのである。池に張っていた氷もそろそろ融けて、また空が映りこむのだろう。そうしたら池の白さも、多分、忘れてしまう。
と、そんなことを書いた次の日の朝早く、思い出したみたいに落ちてくるひとひらの雪を、窓の外に見た。ただ風に流されているだけの雪の軌跡が、うつくしく映った。
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