人が生きるということは、「自分自身の他に対する蔑視」との闘い
私の信条のひとつはが、「他人とは違うあらゆる差別を常に眠らせましょう」で、英語で書くと「Let your all disclimination to any diffellence fron others always sleep」となります。
タイトルに書いてあるごとく、人が生きるということは、「自分自身の他に対する蔑視」との闘いだと思うのです。
人間の心というものは、じつに揺らいでいるものだと思います。
コロナの影響で、外を歩いている時に、「マスクを着けていない人」とすれ違うだけで、その相手に対し、心の中に小さな嫌悪感が芽生える自分がいます。
この嫌悪感こそ、何の根拠も無い蔑視であり、自分勝手な見方(パラダイム)であると思うのです。
しかも、もしそのマスクを着けていない相手が、小学生の子どもならさほど嫌悪感が無く、年老いた老人であればあるほど嫌悪感が強いとしたら、それは間違い無く、私の歪んだ見方の問題であって、相手の問題では無いですよね。
コロナに限らず、また家の内外に限らず、そういった「年寄扱い」「子ども扱い」「変人扱い」「外国人扱い」といったことに表れる差別感情は日々心の中に涌きあがってくるもので、そういったものを常に「閉まっておく」「眠らせておく」闘いが必要だと私は思っています。
逆に同じ状態でも「子ども」だったら良くて、「お年寄り」だったら悪いというような見方(パラダイム)の不公平さを意識することも大事と思います。
人が人に会う以上、相手のことを言葉で表現する、複数いればそれを比較して口にすると言うことも、幼児の頃から繰り返し行われることなのですが、だからこそ「言葉にすべきことと、すべきでないこと」の善悪は、幼い頃から反射的にでも保護者や教育者は気をつけて行うべきことだと思います。
「それは違う!」「それは言ってはダメなんだ!」と。理屈では無くて。
本当は社会というものにも、倫理観として持っておいてもらいたいものですが、残念ながらむしろ差別を助長させてしまう現実もあるようです。
今ではSNSの普及により、差別や蔑視に対して、排斥しようという力が働いているのは、大変いいことだと思います。
差別心こそが、「戦争」や「いじめ」「ハラスメント」「虐待」などにつながるのですから。