追悼 今も地の底に眠る想い ~ 日鉄池野鉱 出水事故の手記より
佐世保市柚木地区に向かう旧道沿いに立つ西肥バス「池野」バス停。
この付近にはさして目立つものもなく、静かな住宅街となっていますが、かつてここに日鉄池野炭鉱があり、通りは国鉄柚木線に沿って続く賑やかな商店街がありました。
日鉄池野鉱は8つもの坑口を持ち、本坑の水平坑道(坑道の内、水平に伸びる部分)は幅8m、長さ1kmもあったと言います。
今ではそんなことさえ知る人も少なくなってしまったようです。
今回はいわゆるトピックではありませんが、「追悼の意」を込めまして、昭和15年に発生した出水事故の記録を紹介したいと思います。
これはいたずらに炭鉱現場の危険さをひけらかし、他の注意をひこうというものではなく、悲惨な事故記録の中にも見え隠れする、当事者たちの「想い」を紹介し、炭鉱理解への一助とならんことを願ってのことです。
【 昭和15年(1940) 池野炭鉱で出水事故 死者5名 】
9月4日
過日来の豪雨で同坑より25間(約45m)の廃坑矢峰坑の水が増水、水圧でコンクリート壁をこわし浸水 入坑中の坑夫80、職員7、避難 坑口500間(坑口より約900m)で作業中の5人逃げ遅れ
遭難者 坑内係 荒川 光雄(29) 福岡出身 以下19歳(鹿児島)、21歳(佐賀)、29歳(福岡)、45歳(西彼多以良村)の坑夫4名
9月30日
事故発生以来26日、浸水による崩壊多く、作業進まず 5人まだ坑内
10月14日
遺体収容
〔 現場係 荒川 光雄社員の遺書より(抜粋) 〕
「十五年九月四日乙方
本日午前0時30分前より非常の伝令(出水でポンプ使用不能)有りしも、チェーン(採炭機械)をしめてからでも間に合うと思ってチェーンをしぼる坑道に下りたる時、十五分前、捲立に来てみれば水は殆ど身の丈くらい来ていた。
切替坑道の所まで水は来ている。直ちに渡ろうとせしも、時すでに遅く、田島、仲尾は殆ど向こうまで行きたるも不能のため引き返す。
一同ずぶぬれになり昇捲き場に休む。
九月五日
午前零時十五分、増水早くして午前二時四十五分に捲場より昇へ移動す。一同静かなり。
此の様な場合は係員か、亦は、ポンプ方が各人へ連絡を取らねばならなかったと思ふ。
午前三時十分、捲場に増水し始む、刻々増水をなす。
午前五時、増水激し。
午前六時だ。刻々と危険に落ち入りつつあり、救護の速やかなる様祈る。荒川、飯山、田島、園田、仲尾。呼吸が段々困難となってくる。救護隊はどうしているのだろうか。
午前十時五分、死の恐怖も何もない。ポンプは待ち遠しい気がする。部下の四名は静かだ。
午後一時三十五分、水はますます大きくなる。後二尺、ポンプはどうしているだろうか。段々頭が痛くなる。空気が濁ってくる。鉱長とよびたくなってくる。
午後二時八分、刻々と死が近づいてくる。呼吸困難となる。
午後三時十分、刻々死が近づいてくる。耳が痛ひ、鼻も詰まりてきた。
午後三位四十分、瓦斯(ガス)が大分充満した。
全力を尽くし救助さるるならば、吾々は助かる。
煙草飲みたい。主任、ポンプ方は責任観念のある有る者を使用する様にしてください。
午後四時、部下は最後の安逸をむさぼる。恵美子、御前は強く生きて。妻や子供の追憶にふける。
午後四時五分、火が消えかけた。別記の通りなれ共、小生の指揮不良のため産業戦士四名を不幸のどん底に落とす様になりました。申訳もありません。皆様に御心配をかけつつ小生等五人は死にます。
部下四人は良く小生の命を聞き、しようようとして部署についておりました。
危険は迫って来ます。部下の四人に対し深く感謝して居ります。
会社の面目をつぶして申訳もありません。会社の斉藤氏、事業主任、鉱長、所長殿。恵美子(妻)、雄治(1歳)。
君と結婚して僅か一年有余、やさしかった君の面影、何の安心もさせずして一足先に旅立ちます。
君は雄治と共に幸福に暮らして下さい。雄治は母に育てて貰って、君は良い機会があれば結婚して幸福な一生を送ってください。
君の心配している有様が手に取る様に分かります。」
・・・・・29歳の坑内係であった荒川光雄さんが作業員4人と共に坑内に閉じ込められてから記録し始めたのが午前0時過ぎ。最後の記録が書かれた16時間後の午後4時過ぎまで、様々な心理の変化が読み取れます。
最初は当然来るものと思っていた救助隊のこと。そして事故後、自分達が坑内に取り残されるに至った原因など。
呼吸困難が進むにつれ、部下や会社へのお詫び、そして記録が不可能となる火が消えかかる寸前には妻と幼い息子のことを想い、遺言のような内容で結んでいます。
人が死を目前にした時、かくも静かで、かくも優しいものかと思わずにはいられません。
結婚して一年と少しという奥さんには自分の死後に再婚を促す言葉まで書いている点は、何とも切ない思いが込み上げます。
なくなった他の4人の方においても、おそらく様々な想いが去来したことでしょう。
遺書に記されていた奥さんの恵美子さんと1歳の雄治さんが、その後どうなったのかは知る由もありません。
雄治さんはご健在でしたら、令和3年の現在、82歳ぐらいになられているはずです。
「むかし、そこにあった炭鉱」と言ってしまえば、ひと言ですが、荒川さんやその奥さんらにとっては、ささやかでも家族で幸福に暮らしていくための、ひとつの職場であったわけですね。
このブログで長崎県内に無数にあった炭鉱を紹介しているのは、そこで生活を営んでおられた多くの家族や人の存在を風化させない為でもあります。
樹木に覆われた山中に残された「鉱区」をしめす石柱。それはかつてこの辺りの地下に延々とつながる地下の「職場」があり、様々な想いの中で男たちが汗を流していたというメモリアルでもあります。
そのことを知るならば、この近くにある「大山祇神社」には無事を祈る鉱員さんとその家族さん達の参拝の様子が自ずと浮かび上がってきます。
遺構から地底数kmにわたってはりめぐらされた坑道が感じられ、そこから同心円状に作業現場や家族の生活の場も見えてくるから不思議です。
この住宅などは炭鉱のものではりませんが、社宅の多かった地区にあり、年代的にも重なるようです。
こういったお宅を拝見すると炭鉱で賑わった頃の幸福に暮らしていた家族の生活の様子がうかがえます。
下の画像は池野-柚木間を走るキハ02、レールバスです。多くの家族が出掛ける際には利用したことでしょう。
池野地区に残る柚木線池野駅跡と廃線跡。駅の位置や炭鉱遺構、神社、住宅、商店などを結んでいけば、かつての街の姿が見えてきます。その姿こそ多くの方の懐かしい生活の記憶なのですね。
あらためまして亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
今後とも、街づくりは「ささやかでも人の幸福に寄りそって」発展してゆけるものであるよう願うばかりです。
(元記事:2013年6月)