これは、ナチスのSSに連行される約一年前、アンネが14歳の時に書いた日記である。
これはアンネの日記であるから、当然アンネの価値観から綴られたものであることは当然である。
しかし、そのことをいくら差し引いても、少なくとも同居していた二人は、あまりにもアンネに対し、「一人の人格を持った人間に対して」語っているのではなく、「こざかしく未熟な存在」という扱いをしていたことがわかる。
そのことに対し、(誰もがそうであるが)アンネは、日記の中で理路整然と反論を展開しており、それはもっともな言い分である。
このテーマは、「アンネの日記」における中核をなすテーマのひとつであり、「現在人が人間の本性と生き方を、もう一度問い直す」にふさわしい実例を示してくれている。
14歳の人間が、40歳や50歳といった人間より、絶対的に経験値が低いのは当然のことである。
しかし、40歳や50歳の人間の方が、「物事の真髄や、人間の心理や特性」をよく知っているとは言えない。
子どもは、ものごころ付いた頃から、純粋にこれからの将来や進むべき社会に期待する。
まず小学校に入学する子ども達のほとんどが、半年くらい前から新しいランドセルを背負ったり、真新しい机で、何か勉強のふりをして楽しみにしているという光景は今も昔も変わらず見かける光景であろう。
それは、確かに「知らない」けれど、純粋に前向きに「期待」している。
しかし、入学後あっという間にその純粋な期待とは、あまりにも違う環境・状態に遭い、学校に行けなくなる子どももかなりの数存在する。
その後も、同じような段階が続く。中学、高校、大学、専門学校、そして職場。
何度、「純粋で前向きな期待」は裏切られ続けてきたのであろうか?
そして、段々と前向きに期待することを諦めざるをえなくさせられてきたのか?
アンネの反論は、そのことについてについての「まっとうな反論」である。
そして、年下の者や、子どもと言われる年齢の者を、「子ども扱い」「未熟者扱い」していることを、アンネが「馬鹿にしている!」と書いたことは、もっともなことだと感じる。
たとえ40歳や50歳になったとしても、14歳の言うことに対し、その純粋さと前向きさを「元々もっていた人間性の善いもの」として認め、尊重した上で向き合い、扱うべきであるのだ。
アンネは、残された日記の最後のあたりで、「何があったとしても、人間の本性は善だと信じている」と書き遺している。
一見、口汚く罵っているかのように見える文章は、この「性善説」を後ろ盾にした抵抗であり、「だからこそ、自分はこのような大人にはなるまい(ならない!)」と誓う意思の表れであるのだ。