見出し画像

「邪悪な人間」というのは、そこら中にごまんといるが、人間以外で「邪悪な動物」というのは、過去も含め一個体も存在しない 

学生時代、私のことを指して「動物を好きで、また動物からも好かれる人に、悪い人はいない」と言った後輩がいた。
悪い気は、もちろんしなかったのだが、逆に「なぜ、君はそうじゃないんだよ!?」という思いが私の中にあった。それは今もそう。

私の兄は、特に変わった男ではないが、チキン=鶏肉を食べることができない。
その理由は、子どもの頃、養鶏をしていた祖父母宅で、我々の眼前で祖母が飼っていた鶏を絞め殺し、解体した行為を目撃したからである。
ちなみに私も同じ現場を見たのだが、兄のようにひどいトラウマにはならなかった。

しかし、私には犬と野良猫においてトラウマがある。
小学3年生の頃、何かのグループ学習で4,5人で歩いていた。
ある車の横を通った時に、ネコの鳴き声を聞いたので、みんなで車の下を覗くと、下に大怪我をした仔猫がいた。車に轢かれたのだろう、腹からは腸が飛び出していた。女子たちは「どうしよう?」と言いつつ、誰もがもう仔猫が助からないと思ったし、助けを求められる大人などいないと悟り、結局そのまま置き去りにした。仔猫は間もなく亡くなっただろう。
その時、何も行動できなかった自分が今も情けない。

高校生の頃、夜暗くなって帰宅すると、うちのすぐ近くのごみ置き場に置かれた大きな段ボールの中から、何やら動く音がする。
「なんだろう?」と段ボールを開けてみると、暗くて中は見えなかったが、何やら異様な悪臭がする。ただちに帰宅し、兄と懐中電灯を持っていき中を照らしてみると、なんと中には痩せ衰えた老犬が生きたまま、捨てられていた。
私の体中に何とも言いようのないような怒りが渦巻いた。その頃、私はナチス・ドイツの「ホロコースト」を調べていたが、人間の残虐性がこんなにも身近なところにあったのか!と憤激したが、その怒りをどこにぶつけたらいいかさえ、当時はわからなかった。
しばらくしてから、兄とミルクを入れた皿を持っていったが、その時には既に犬は死んでいた。
どのような思いで、ゴミ捨て場の段ボールの中で死んだかと思うと、今も暗い気持ちになる。今でもゴミ捨て場に行くと、段ボールのあった場所に手を合わせる。


今、うちの中で飼っている2匹の猫は、うちの庭で生まれた野良猫の仔猫なのだが、ある日、バイクか何かに轢かれたらしく、後ろ足2本を血だらけにして引きずりながら庭に帰ってきた。
すぐさま、病院に連れていったが、あまりにもひどい怪我なので、医師から「安楽死させた方がいい」と言われることを覚悟していた。
しかし、医師は片方の脚は切断し、もう片方は残す選択をした。私も、可愛がっていた娘たちの為にも、そうするべきだと強く進言した。
何度も手術を繰り返し、脚はいつも膿でぐちゃぐちゃだった。しかし、当然仔猫はあきらめなかった。
3本脚で歩けるようになるまでには何か月もかかった。
費用は20万以上かかっただろう。しかし、そんなことは問題では無かった。

今、2匹の猫は家族の絆を強めるアイドル的な存在となって元気に過ごしている。


野良猫の問題、昭和の昔から、ただ「餌をやるな」と言うだけの者は、要は「自分の敷地にフンをするな。他の所にする分は関係ない」というだけの、何の解決力もない身勝手な理論。
車に轢かれた無惨な姿や、餌も寝どこも無く瀕死の状態を見て、時にはトラウマになるほど傷つく子どもや若者たちのことなんてまったく気にもしていない。
この点は、桑名市多度大社の馬の神事や、食肉問題、絶滅問題などに関しても大体同じ。
自分にとって損得があるか、或いは興味があるかどうか?ということだけしか気にしない者が、残念ながらほとんどである。


※「チップ」は有難く拝受させて頂きます。もし、この記事が多少でも役に立った、或いは「よかったので、多少でもお心づけを」と思われましたら、どうぞよろしくお願いいたします。贈って頂いたお金は1円たりとも無駄にせず大切に使わせて頂きます。