8月4日に、ミープ・ヒース著「思い出のアンネ・フランク」第三部「暗黒の日々」を読む
8月4日は、1944年にアンネ・フランクを含む8人が、アムステルダムの隠れ家からゲシュタポによって逮捕・連行された日である。
従って、今日全世界で2,500万部以上の発行部数を記録し、世界記憶遺産にも認定されている「アンネの日記」は、1944年8月1日の日記が最後となっている。
逮捕・連行された日が、8月4日であることを知っていたので、「アンネの日記」を読んでいる間も、8月の日記が近づいてくるに従って、胸が苦しくなったので、実際に彼女らが味わった恐怖というものは、いかばかりだったろうか。
その当日のことが克明に書いてあるのが、同書の「第三部 暗黒の日々」以降なのである。
当日の朝も、ミープが「隠れ家」の人たちの所へ買い物リストを受け取るために顔を出すと、いつものように15歳のアンネが、彼女を質問攻めにし、「しばらくおしゃべりしていかないか」と誘ったと言う。
それに対し、ミープは「午後に買い物を届けた時なら、ゆっくり座って話ができるから、それまで待っていていて欲しい」と応えた。
しかし、その楽しいはずの「おしゃべりの時間」は、永遠に来なかった。
私はぜひ同書を、直接読んで欲しいので、詳しい説明は避けるが、当日、隠れていた8人と手助けしていたミープたちは、一方的にゲシュタポによって蹂躙され、なすすべも無かったのだろうと予測していた。
当時、ユダヤ人をかくまったというだけで、命の保証はまったく無かったからだ。
しかし、それは全く違った。
手助けをした2人の女性のうちの一人、エリーは、他の支援者の指示に従って脱出したが、ミープはそれを断り、秘密警察の男の威嚇やなじりにも、いっさいたじろぐことは無かった。
たまたまその男がミープの生まれ故郷であるオーストリアなまりのドイツ語をを話すことから、そのことを指摘し、相手をひるませている。
そして、翌日には、仕事仲間の提案から、たったひとりで、ナチスのゲシュタポ本部に乗り込み、「いくら払えば8人を返してもらえるか?」と会議室みたいなところにまで踏み込んでいる。
また、第1部~第2部を読むと、ミープ・ヒースと夫ヤンが、助けたユダヤ人は8人以外にもいたのだが、彼らに心配させたくないとの思いから、秘密にしていたことがわかる。
また、助けたのは人だけではない。
同じアパートに住んでいたユダヤ人女性が、連行される前に「飼ってやって欲しい」とつれてきたネコも快くひきとり、その後も長く世話をしている。
この人を一言で語るならば、「正義の人」と言うよりは、「差別を憎み続け、生命を尊び、誠実に静かに生きた人」である。
その点で、ミープ・ヒースとアンネ・フランクは、同じパラダイム(価値を伴う考え方、感じ方、見方)を持つと言える。
特に自分を「子ども扱い」という差別をしてくる母親エーディトやファン・ダーン夫人に対し、心を閉ざしたアンネが、唯一ミープだけは、日記の中で偽名を使わなかった理由が、そこにあるような気がする。
ミープ・ヒースは、ゲシュタポが8人を連行した後、全ての財産を没収するのを知っていたので、すきを見て、床に落ちていたアンネの日記帳と散らばっていた書き付けを拾い集めた。
そのおかげで、「アンネの日記」は、生前アンネが願っていた通り、彼女の死後も未来に生き続けることとなった。
しかし、ミープは「アンネの日記」が世界的に注目され、国内外から英雄的な扱いを受けた後も、彼女はやはり、そのような「特別扱い」という差別の一種を拒み続け、未だに無名(アンネ・フランクに比べ)のままでいる。
また「思い出のアンネ・フランク」は、なんと今、日本では絶版となっているが、私は人生でこれまで出会った書物ベスト3の中に、確実に、この書を、「アンネの日記増補改訂版」とセットで挙げたい。
最後に、アンネ・フランク・ハウスのHPに掲載されている、ミープ・ヒースのインタビューの一部を掲載したい。
そして、これからの未来を生きていく若い世代にこそ、この書が多く読まれることを願ってやまない。
ミープ・ヒースと夫ヤンが当時住んでいた、アムステルダムのフンゼ・ストラート。
googleで見ると、ミープが述べた通り、何の大袈裟な案内板も無いが、中央の緑地帯の看板に、「Miep Gies」という彼女の名前が見える。
※「チップ」は有難く拝受させて頂きます。もし、この記事が多少でも役に立った、或いは「よかったので、多少でもお心づけを」と思われましたら、どうぞよろしくお願いいたします。贈って頂いたお金は1円たりとも無駄にせず大切に使わせて頂きます。