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「人間のように我がない分、馬や動物たちは純粋で、信頼できる人間が世話をしてくれれば他に何もなくてもそれだけで、彼らは十分に満たされることができる」~或る方のnoteから

ある方のnoteを読んで、とっても幸せな気持ちになった。
そのnoteを読むことも、偶然とはいえ、何かの巡りあわせなのだろう。

ある記憶
9_Green 2022年8月15日 07:22 



福島では、毎年7月に行われる相馬 野馬追(そうま のまおい)という伝統行事があります。

何年か前に見に行ったのですが、ここ数年は帰省できておらずオンライン見物のみになっています。

PCのディスクを整理していたら、2018年に見に行った時のお写真がたくさん出てきてとても懐かしくなりました。


引っ越す前の義理実家のすぐ近くの神社に馬小屋がありました。
4頭の馬たちがいつもいて、その長い顔に妙な親近感が感じられて大好きでした。
帰省のたびにわざわざ時間を作って会いに行ったものです。

そこは相馬野馬追の1日目に「総大将出陣」が行われる神社として知られているところで、
義実家が震災でダメージを受け、海沿いに引っ越してしまってからは行かなくなっていましたが、
野馬追を見にいったときに久しぶりに鳥居をくぐり、彼らの顔を見ることができました。

3年ぶりです。みんな、元気そうでした。


馬は古くから家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられてきた動物として歴史があります。

走るときに背中が彎曲しない性質があるため、乗用に適しています。日本における乗馬の風習は、4世紀末から5世紀の初頭に大陸から伝わってきたということです。

調べたところによると、馬は知能の高い動物で、犬猫に継ぐ頭脳を持っているそうです。中でも長期記憶は非常に高いことが知られており、さまざまなエピソードがあります。

日ごろから愛情をこめて世話をしてくれる人に絶大な信頼を寄せ、恩を生涯忘れない。

一方、乗り手が自信なさげな初心者だと、わざと暴れて振り落とそうとすることもあるといいます。


・・・思い出したのですが、以前誰かのブログで「過去世で馬だったときの記憶」というのを読んだことがあります。

断片的に出てくる記憶の中で大きかったのは、地面に挿した木の棒に縄でつながれていたときのことだそうで、

少し離れた場所にある木造の家には、飼い主一家が住んでいる。
そこの息子である10代の少年に、絶大な信頼を寄せている。
ただっぴろい牧草地にポツンと立って、飽きもせず家にいる少年のことを思っている。
彼(馬)の心からは、少年に寄せる想いが湧き出るように出てくる。
いつまでもいつまでも、想い続けて家の方を見ていた。

・・・というものです。

以前、いろんな人によってたくさん公開されていた過去世の記憶、

史実が書いてあって面白いものも多く、私もコッソリ読みふけったりしましたが、その中で、
私がもっとも心を打たれたものが、この「馬だった時の記憶」です。

馬以外に犬や猫などもそうだと思いますが、

ある程度の知能を持った動物は、人間の気持ちを理解し、心を通わせることができます。

人間のように我がない分、彼らは純粋で、信頼できる人間が世話をしてくれれば他に何もなくてもそれだけで、彼らは十分に満たされることができるのかもしれませんね。

動物たちと人間のやりとりは、離れていても空気を経由して伝わるようなもの、心の奥底で行われる、言葉を必要としない交流なのだと思います。

人間が受け取ることのできるペットによる癒しは、その表れのひとつなのでしょう。


9_Green


今でも、時々ふと、私のところに来てから、対州馬のひん太は毎日どのような想いで、毎日を過ごしていたのだろうと思う。
そして、そのことを思うと、胸が苦しい。

毎朝夕、30分~1時間は傍にいて、世話をしたりトレーニングをしたりしていたとは言え、独りっきりの時間の方が圧倒的には多かったのだから。
私は、今でも、どのような思いで、ひん太がいたのだろうと、そのことばかりが気になってしまう。



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江島 達也/対州屋
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