長崎市民である我々は、「原爆の記憶が薄れつつある」と言うが、一方「東京大空襲」などについて、どれだけのことを知っているか?
我々長崎市民にとって、8月9日が近づいてくると、鼻の奥がツーンとするような感覚がある。
最近では、「長崎に原爆が落ちた日は?」と尋ねてもわからない若者が増えたとか、被爆の記憶が薄れてきたと危惧する声が良く聞かれるようになったが、一方で最近、今後心配に思うこともある。
それは、原爆のことを学ぶ一方で、「他の戦禍の事実」について学ぶ機会や関心が薄れているのではないか?ということ。
例えば、犠牲者の数では、長崎原爆をはるかに上回る東京大空襲。その主な日を知っているだろうか?
1945年3月10日の空襲では、想像も絶するような焦土作戦が遂行され、長崎の7万人を超える10万人が命を落としたのだ。
そのひとつひとつ、「絶命」の実相は、「空襲で焼け死んだ」などという生易しいものではない。
10万人以上の人間が、いきなり高温に熱されたオーブンの中に投げ込まれたような状態だったのだ。
東京大空襲の遺構は、ほとんど残っていないとされるが、その中のひとつ、墨田区と台東区を結ぶ言問橋には、空襲によって焼き殺された人間の脂が、黒い染みになって残っていると言われています。
東京大空襲が、そして「火の雨」と呼ばれた焼夷弾が、どういうものであったかは、次のwikipediaからの引用を読んでもらえれば、おおよそのことは判ってもらえるだろう。
長崎市民にとって、忘れようにも忘れられないB-29爆撃機「ボックス・カー」。しかし、広島市民にとって「エノラ・ゲイ」がそうであったように、名も無き1機1機のB-29は、大切な家族を失った方にとっても忘れられない名称なのである。
同時に、私たちは、戦争の加害という面にも目を背けてはならないだろう。
「世界史上、初の都市への無差別爆撃」は、日本軍が中国の都市に対して行ったものであり、ユーラシア大陸に最も近かった我が長崎県の大村にあった航空基地からは、多くの爆撃機が渡洋爆撃を行うために出撃し、多くの罪なき市民を虐殺する結果を引き起こしたのだ。
「戦争」を、そして「平和」を学習する場合、そのすべてのサイドから検証し、第三者的にとらえなければ、何の意味もないだろう。
「戦争反対」は、ほとんどの人間がわかっている。しかし、なぜ現実に今もこうして、戦争は引き起こされているのだろう。
「どうやったら、戦争に発展する前に、とどまらせることができるのか?」
戦争を引き起こさない為の「ソリューション」を構築することを主に学習を展開すべきなのである。