画家としてのゴッホは、伝道師として赴いたベルギーの炭鉱町が出発点だった
フィンセント・ファン・ゴッホが画家として活動を開始する前、書店の店員、語学学校の教師という職を経て「伝道師」を目指した時期がありました。
ゴッホ、23歳くらいの頃です。ブリュッセルの伝道師養成学校で3か月学んだ後、「不適格」の烙印を押されたゴッホでしたが、独自で伝道活動を志し、当時耳にしていた南ベルギーの炭鉱町ボリナージュへと伝道活動に向かいました。
(写真は廃坑となったボリナージュの竪坑やぐら)
当時のボリナージュの炭鉱はかつてゴッホがロンドンで見た貧民街よりもさらに悲惨な場所でした。
激しい労働、炭塵による病気、ガス爆発などによる死への恐怖。そして賃金はここ数年、前例がない程、下落していました。
はげしい同情心にとらえられたゴッホはあるゆる方法で街の人たちのために尽くしました。
街角でひとり神の言葉を説くゴッホは、最初は馬鹿にされたものの、次第に人々から支持されるようになりました。
(写真は閉山後のボリナージュの炭鉱街)
評判を耳にした伝道委員会は、ボリナージュ地区のヴァムスの伝道師に試験的に任命し、月々給料を払うことを決定しました。ゴッホはこの決定に狂喜しました。
ヴァムスに正式に赴任したゴッホは到着早々、貧しい人の中に飛び込んでいきました。
教区の家々を訪ねて歩き、もっとも貧しいと思われる人々に自分の衣服と金をすべて分け与えました。
そして自分はボロボロのシャツを着て、顔をすすで汚したまま、あばら屋に住み、藁の上で眠りました。
(写真はゴッホが下宿をしていたプチ・ヴァムのパン屋の裏庭)
炭鉱で爆発事故があった時など、ゴッホはすぐにかけつけて、超人的な働きをみせました。
また、突然チフスが大流行したときも、ゴッホだけは病に倒れることもなく、食事もとらずに病人の看護にあたりました。
医者が見放した炭鉱の重傷者を熱心な看護の末、ついに命を救ったこともありました。
・・・この時のゴッホがいかにモチベーションの高い状態で「神の道」を目指していたか、がわかります。
しかし、6か月の試験期間が過ぎた時、伝道委員会の視察官はゴッホについて、『この青年は、よい伝道者になくてはならない素質である良識と精神の均衡に欠けている』と本部に報告し、本部はゴッホの解任を決定します。
牧師への道を断たれ、家族にも見放されたゴッホは、絶望の淵へと立たされましたが鉱夫たちをデッサンすることに没頭し始め、ここに画家としてのフィンセント・ファン・ゴッホが歩み始めることになります。
『・・・鉱夫や職工たちは他の労働者や職人たちとは異なった種族だ。僕は彼らに大きな共感を覚えている。いつか僕が彼らを描いて、まだ世間にはほとんど知られていない彼らの姿を明るみに出すことが出来たらどんなにうれしいだろう・・・』(弟テオ宛の手紙より)
「シャベルをかつぐ鉱夫」(1879)
「石炭袋を担う鉱夫の妻たち」(1881)
ボリナージュでデッサンされた、この作品はゴッホ自身にとって実際に見聞し、見極めた「本質」そのもでした。
遠くに見える教会堂よりも、手前にいるこの鉱夫たちの方がキリストに近い場所に立っていると感じ、その手に持つカンテラは陽光よりも希望の光に満ちているものだ、と確信するに至ります。(デッサンの中に見られる、木に掛けられた小さなキリスト像が象徴的です・・)
よってこれまでの形式主義的な画壇とはそりが合うはずがないのですね。その後のゴッホの苦悩については、世間に広く知られる通りです・・・
ボリナージュでそのまま伝道師になっていたとしたら、画家フィンセント・ファン・ゴッホはもちろん無かったでしょう。しかし、晩年のゴッホの悲惨な運命を思うと切ない気がします・・・。
人の運命とはわからないものですが、亡くなる直前に生み出された「ひまわり」や「オーヴェールの教会」等のルーツというのは、まちがいなくここにあったわけなんですね・・・・・
ゴッホが遺した作品一枚一枚が、ゴッホにとって、「神の福音」というべきものであったのかもしれません。
そう考えると、有名な作品もまた違った見え方がしてきますね。
「ひまわり」
常に光のある方向を向く向日葵に、ゴッホは神聖なものを感じ、その黄色も特別なものと感じていたようです。
「星月夜」
手前にそそり立つ糸杉。遠くに見える教会の尖塔と夜空に渦巻く星。全てが象徴的であるような気がします。
「オーヴェールの教会」
亡くなった直前にフランス・オーヴェール村で描いた教会。故郷オランダの衣装を着た女性が描かれています。