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戦争を全く知らない子供たち

寒いから駆け込んだ喫茶店でだらだらと友人と話しているといつのまにか尾道への旅行が決まっていた。

当初は長野県の渋温泉に行こうという話だったのだが、アクセスが悪い上に宿が高すぎた、すっかり意気消沈である。

何かアクセスの良いところで楽しいところないかなあと思っていたところ、前から課題にしていた広島県は尾道に行くことにした。実は行ったこともなくはないのだが駅で降りて尾道ラーメンを食べて少し散歩した程度である。少しの散歩でもすっかり魅了されたのを覚えている。

広島は何度も足を運んだが、原爆資料館や呉の軍港などがあり日本の軍国主義や戦争の爪痕を一番感じるところであり少し足が重たい。
しっかりと見つめるのはとても気力のいることだけれど、原爆の悲惨さや戦争の恐ろしさから目を背けてはいけない。

70年代フォークの名曲に「戦争を知らない子供たち」という歌があり、サビの部分で「僕らの名前を覚えてほしい、戦争を知らない子供たちさ」とある。当時は終戦から25年ほど、戦後生まれが成人した頃である。終戦直後の生まれであれば敗戦の瓦礫の街や闇市などの爪痕を感じたかもしれないが、60年以降の急成長で本当に戦争を知らない子供たちが出てきた時代である。当時、そのような歌が流行った背景に70年代の大人たちが「戦争を知らない子供たち」の存在を衝撃をもって受け止めたのではないかな、と思う。僕は98年生まれの「昭和を知らない子供たち」であり、大学4回生だ。今年入ってきた新入生が2000年生まれや01年生まれで、とても驚いたのを覚えている。丁度そんな(多分それよりも大きな)衝撃だったんじゃないだろうか。

もう、「戦争を知らない子供たち」が大人になり高齢者になっている令和の世の中だ。戦争を知っている世代がどんどん減り彼らの記憶や歴史が少しずつ失われているような感じがある。口が裂けても「軍隊を持とう」と言えなかった昭和の雰囲気とは異なりかなり憲法や軍備についての話をよく耳にする。

人間は永遠に生きれないから歴史の生き証人はどんどん減っていく、それは致し方のないことだ。しかし、記憶はどうにか留めておかなくてはいけない。その記憶を留めておくのが数々の資料であったり、原爆ドームであるのだ。個人的に衝撃だったのは橋桁に付いた人の影の後であった、原爆がいかに威力のあるものなのか中学生の僕でも痛感したのを覚えている。

震災の後に残すことになった一本松や、石垣が崩れてしまった熊本城、日本いたるところにある様々な史跡など、ものというのはそれ自体が記憶「memory」となる。

「戦争をもちろん知らない子供たち」であるからこそ、記憶をどうにか留める努力が必要のように思える。

話が尾道から脱線してしまった、今バスの車内でこのnoteを書いている、少し重い気分になってしまったが、尾道の旅を楽しもうと思う。今日から全国的に冷えるらしく極度の寒がりの僕はビビリまくっている。晴れてくれ、頼むから。

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