バンクーバー。 私はまだ、この記憶から感情を取り除くことが出来ないでいる。 無数の海月を前に息を呑む。 囁くような声で深海魚を指差す。 対岸に煌めくダウンタウンの夜景。 艶のある肩にかかった銀髪。 貴女の後姿が脳裏に焼き付いている。 海風と雨の生みだす湿気がやっと美しいものに為ると思った。 本当にそう思った。 時が解決する。 その言葉を信じたい気持ちと対する反抗心が葛藤を続けている。 まだ貴女の後姿を追い続けているのだろう。 まだ私は、机上の記憶に手をつけられてい
深夜5時 人気のない高架下 2人の足音が響いている 雑多に入り組む飲食店 湧き出す硫黄の煙 坂の下の海は瑠璃色 明日去るこの街で過ごした3年間の記憶が蘇る この街の思い出はつまり貴女との記憶だ 私たちは3年間共に過ごし、 そしてそれに区切りをつけることを決めた。 8月、共に観た花火を思い出す。 夏の暑い夜 この日が私たちの最後の夜だった。 帰り道で別れを告げた 自ら別れを告げておきながら、私は喪失感に押し潰されていた もうどうでもいいんだ そう思った。 今になって
オスロ。 ヨーロッパでは珍しいモダンな街。 市庁舎、ムンクにオペラハウス。 どれも味気のない現代建築にすぎない。 冷ややかな歩道の雑踏。 急に現れる大聖堂。 街中にあるというのに観光客は殆ど居ない。 静寂の中、靴音がヴォールトに木霊している。 神なんてものを信じてはいない。 しかし信じることができれば幾分楽だろうかとは思う。 人は縋るものが必要なのだろう。
ガムラスタン。 斜陽に照らされた古壁が昨晩とは異なる表情を見せる。 ただ古いだけでは無いのだと、主張を強めるように。 名も知らぬ教会。 月を見上げる鉄の少年。 回廊の奥に覗く海と新市街。 一歩一歩、踏み締める。 砂利が靴底に擦られる音を聴きながら。 ストートリ広場の石畳はまるで流氷。 急に鴾色の壁をもつ教会が目の前に。 扉は閉まっている。 私は救いを求めているのか? いや、違う。 私はここに、自分の人生の終わり方を探しに来たのだ。 しかし私はここで足を止めている
ゴットランド島、ヴィスビー。 輪壁が町を囲う小さな都市。 そこかしこに、かつて聖堂だったものを見ることが出来る。 きっと数百年昔、修道士が信者に言葉を投げかけていたのだろう。 何度も戦禍に巻き込まれたこの町で。 意味があるのか自問してでも、何度も何度も。 教会が焼け落ちても尚。 私は言葉の力を信じている。 かつて若い音楽家が言葉なんてものは大した価値を持たないものだと言った。 そんなことは無い。 人は言葉により癒され、言葉により傷つき、言葉によって自分自身を現すことがで
今日にはこの街を出る。 カンパの古ホテル、ナ・カンプイエ通り、カレル橋。 真朱の朝焼けを背にする旧市街。 柄にもなく朝の散歩なんてしている。 私はこの街が気に入っている。 程よく人が少なく、古い町並みが遺るこの街が。 旧式のトラムが目の前を通っていく。 人は過去に囚われる生き物なのだ。 こうやって、古い想いに価値を見出そうとする。 そこになんの意味があるのか、きっと誰も知らない。 ただただ古い想いに囚われ蠢いているのが人間だ。 無理やり意味付けをしてでも藻掻くのだ。 ふ