ロマンティック、あげない
noteを書いている時間は、他のどの時間とも違う。
おおよそ心の作業に近い。
テーマを思いつくのはほとんどが外にいるとき。
だけど、それを逃さない心の機微からすべてが始まる。
些細なことが気になって、頭の中でどんどん大きくなる。
しばらく温めていたら、昔のことがふと思い起こされたり、身の回りがざわつきはじめる。
紙にあらすじを書いて、後はnoteへ書き連ねる。
出来上がった文章を読み直すと、なんとまあひどいことだ。
(公開した後も修正することが多々あるのですが…)
だけど、大体そんなもの。
最初から完璧に書くなんて、一生できないと思う。
この記事だって、ビフォーアフターが清々しいほど異なっているはず。
とりあえず書く。
思いがけず、別の出来事とうまく繋がったりすることもある。
紙に起こしたあらすじとまったく違う結論に落ち着くこともある。
いろいろ試行錯誤して書いたnote。
それは自己満足でもあり、自己充足でもある。
心に始まり、心に終わる。
そして、次のテーマがどこからかやってくる。
〇
普段の生活で、そんな姿はあまり見せない。
普段というのは、友達といるときのことが多分に占める。
しょうもない話題で盛り上がったり、ゲームアプリで時間をつぶしたり。
いわゆる、普通の大学生だ。
彼らの中で、noteを見せた人はほとんどいない。
だって、それは僕であって、僕ではないからだ。
友達をあざむくとか、そんな野暮な気持ちはない。
ただ、僕にとってどちらも"大切な日常"だから。
どちらかが欠けると、それはそれで困ってしまう。
だけど、どちらかに偏ってしまっても、きっと気難しくなると思う。
言葉では説明できない、微妙なバランスがあるのだ。
〇
「君は、ロマンティストだね」
いつだったか忘れたけど、そう言われた。
そのときの状況も全く覚えていないから、懐かしむあてもない。
ただ、ふと思い出したのだ。
自分がロマンティストかどうかは、分からなかった。
ただ、なんだかうれしかったのは覚えている。
当時はまだ、noteも書いてなかった。自分の表現の仕方を知らなかったから、よりそう感じたのだ思う。
今、言われてどう思うか。
その答えには条件がつく。
「現実で言われると、困り顔になってしまう」
noteに寄せ集めた自分のかけらが、現実世界にポンッと現れた気分になるから。
掃除機で吸って、元の場所に戻してしまいたくなる。
”みんなとの日常”と”自分だけの日常”が保たれていることが、とても心地よいのだから。
〇
「君は○○と書いていたけど、僕はこう思うんだ」という人もいる。
それは話甲斐があって好きだ。
ある程度の背景が共有できていることが一瞬で分かるからだ。
ただ、それもまた別の”日常”。
やっぱり、noteの時間ではないのだ。
とはいっても、全てが明確に区切られているわけでもない。
”気づき”はいつどの時間にだって存在する。
友達が与えてくれたテーマ(そう感じただけなんだけど)もあるし、色んな人と会話する中でヒントを得たものもある。
すべての時間がnoteの時間であるといえばそうなのかもしれない。
ただ、それでも譲れない想いがある。
noteの時間は、noteの時間。
僕が唯一、ありったけの思いに素直になれるとき。
紛れもなく、そうなのだ。
だから、それ以外ではロマンティックはあげない。
そう簡単には、あげられない。
p.s.
ちなみにタイトルは「ドラゴンボール」のED曲「ロマンティックあげるよ」由来です。
歌詞も素晴らしくていつ聴いても良い曲!