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内省する無職(34歳)
壱
ここnoteでの発信歴も気付けばはや3年。
「石の上にも三年」なんて諺がありますが、ひきこもりの私は部屋の中に十年以上居ります。そんなに長い歳月の中で"温まった"ものとは一体……?
そういうわけで、皆様ごきげんよう。長期ひきこもり生活によって錆び付いてしまった心身のリハビリ、その先に「人間としての回復」を目指す、意識高い系ひきこもりホロ9です。
![](https://assets.st-note.com/img/1731138404-Sj0rJeVp3Ukdw1nsfCbH9yZo.png?width=1200)
アカウント開設以降ずっと"鉄仮面"のような物々しいアイコンを使用してきた私ですが、ここ最近になってひっそりと上記の画像に差し替えました。
これは結果的に、大衆感覚に擦り寄るような立ち回りになってしまったのでしょうか。ひきこもりたるもの「芸術活動に於いては反大衆」こそが王道でありながら、これはなんたる……。
ですが「とにかく奇怪なものを好む」という性分のせいか、自身の発信物もまた無意識の内におどろおどろしくなってしまう傾向にあるため、露骨に「媚びる」というのもそれはそれで良いようながしてきているこの頃です。それでようやくちょうど良いバランスになるかも知れないと(笑)
そして、このアイコンというのが最近新たに手を出した「イラスト練習」の産物でして、もっと上手に描けるようになったら更新するつもりでいます。なんだかちょっと哀しいような、小憎らしいような表情をしているので、素直に笑わせてあげたいです。
弐
ところで、この唐突に個人的な「内省」がテーマの記事を出してきたことにはちゃんとワケがございまして、手がこうしてせっせと文字を打ってくれている傍ら、本体の方は近年稀に見る体調不良に陥り、ほとんど身動きが取れなくなっているのです。具体的には異常な体の重さやふらつきが起きてしまい、横たわって過ごすことを強いられている状況です。
思い返せば、もう7年以上も前のこと。「健康は命よりも重い」を標語に、思い付く限りの悪習を断って過ごすよう心を入れ替えてからというものの、日常生活の中で病床に臥す機会はしばらく免れていましたが、今回は無意識のうちの疲労の蓄積か、また知らぬうちに新たな悪習に浸ってしまっていたか、はたまたウイルス性の病に因るものか、何れかの要因によって久しぶりに手痛いのを喰らってしまいました。
ちょっと外出するのも厳しいような有様です。「トホホ」なる若者間では最近めっきり使われなくなった感動詞は、きっとこういう時の為にあるのでしょう。ですが、恥ずかしいので私はそんな言葉を使いません。カッコイイ言葉だけを使いながら生きていたいのです。34歳にもなって、まだまだ中二病を抜け切れていません、トホホ…………あれ……?
参
重い体調不良に陥った際、私の頭を過るのはいつも決まって「死」のことであります。
これまでにも繰り返し病床に臥しては、時には激痛に悶えながら死を想い、次いでは己の生き様を回想し、締めには現時点での生活態度を深く反省させられて参りました。その度に幾らひ弱な私の人間性とはいえども、アルミホイールが野ざらしで雨風に打たれるかの如く、叩き直されてきた気がしております。かくして私にとっての病苦とは、定期的に連れてこられる「修練の間」のような時間でありました。
そうして今回も、己の在り方についてを深く反省させられております。
一年以上前に社会復帰への意欲を高らかに宣言しておきながら、結局はひきこもりを続けてしまっていること。裏ではちょっとした小遣い稼ぎにも挑戦していますが、掛ける労力と時間に対して割に合わない成果しか出せないこと。色んな物事にめったやたらに手を出しておきながら、どれも三流にも届かぬ中途半端であること。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」とは言いますが、アホの鉄砲にはそもそも弾が入っていないのです。こればかりは、一流手品師でも椅子からひっくり落ちる仰天のトリックだろうと自負しております。
元々の私は「自己」の希薄さに悩み、独創的かつ己の意見を堂々と発せる人々の姿に憧れ、彼らの背中を必死で追いかけてきたような人間です。「どうすれば思想が強そうな人間に見えるか?」「どうすればキ〇ガイだと思ってもらえるか?」そんなことまで真面目に研究してきました。ところが最近、これがひっくり返って「自己で固まり過ぎてしまった」ような懸念があります。精神医療の世界ではこうした現象を「治り過ぎ」とも表現するようで、ここはちょっと笑いどころです。
「自己」で固まり過ぎた結果、発信内容が単調になってきた気配もありますし、もっと柔軟に未知・異論を吸収する姿勢が求められてきそうです。
そもそもの話「キチ〇イを目指したがる人間」にはどんな心理があるのか?自己分析も兼ねて、これをネット検索に掛けてみました。あまりメジャーな欲求ではないらしく、なかなか候補が見つかりません。辛うじて近しい内容を拾い集めて統合した結果、「自己の無個性さへの劣等感」「狂気=強さであるという認識と憧れ」という分析が浮かび上がって参りました。
これは双方私に当て嵌まっている自覚があります。学生時代などは「お前は自分の意見が無いな」と苦笑にされることが多く、何を決めるにも自分ではできない人間でした。特に読書感想文など個性を求められる機会には、辛うじて話し相手になってくれる同級生に頭を下げて、内容を真似させて貰うような有様だったのです。
高校時代には一応部活動にも所属しましたが、これもまた同じ中学校出身の生徒に金魚のフンみたく着いて行った結果であり、その人が一か月も経たない内に部活動を辞めてしまった後、私もすぐ後に続きました。しかしその人は結局他の部活に興味が湧いたと言い始め、着いていく気力も無かった私は残りの高校生活を所謂"帰宅部"として一人黙々帰路のウォーキングに励んでおりました。同級生らがみな自分が好きな部活に入って楽しそうに活動しているのを、まるで別世界を眺める心境で見ておりました。周りよりも遥かに「自分」が無く、そして弱い自分が情けなかった。自発的に物事に興味が湧いてしかも行動に移せるなんて、不思議で仕方がなかった。これはかなり根本的なところにある私の劣等感なのではないかと分析しております。
あとはここnoteに於きまして、自身の「脳機能回復(つまりリハビリ)」の為に拙いながらも文章発信を始めたと同時に、こんな私でも、同じように人生に絶望したり、困っている人の力に少しでもなれないかと情熱を燃やし続けて参りました。それは単純に「同じ境遇にある者への仲間意識」であったと同時に、「狂気に染まりきった現代社会では、清く有能な人間ほど絶望を抱えて生きている」という確信があったことも動機です。たとえ私が無能だとしても、彼らには世界を変えるだけの能力と希望がある。そういった人々への応援に、何らかの形で一票投じたかったのです。投じるにしても肝心はその品質だという話になってきますが、私の場合はこれが熱量についてきていない自覚があります。それでも一応、感謝と喜びの言葉をいただける機会も何度かございまして、私にしては上出来だと思っています。これは約30年の仄暗い人生の中で、数少ない美点です。
尊敬する芸術家が言っていました。「内省こそが人生のカギである」という風に。私はそれを聞いてハッとしました。たしかにこれまで人生に起きてきたあらゆる問題は、内省……つまり「自己を振り返り、内側を観察する行為」によって、全てのカラクリが判明するように出来ていたことに気付いたからです。
過去の私が様々な病気に罹って苦しんでいたのは明らかに食生活や生活習慣の異常に起因しておりましたし、友達が出来ないのはコミュニケーションのやり方や心の持ち方に問題があったからでした。人生が空虚に感じられるのは自分の命よりも重要な目的が無いからであり、世界が狭いと感じられるのは興味の幅が狭く、自分が知る情報がこの世の1%以下だと知らなかったせいです。そして「自分」が無かったのは、下ばかり向いて生きており、この世界でやりたいことを見付けられるまでの"展望"を全く行えていなかったからです。周囲や先人方からの刺激を借りつつ、紆余曲折を経てこれらの解に至れましたが、単に深い内省の世界に潜り続けることでも、これらは全て自ずと判明していた筈なのです。
恐らく私以外のほぼ万人の意識世界に於きましても、内省によって己の「醜態」「欠陥」「不足」というものが浮き彫りになってしまうことかと思われます。これと向き合うことは正直、私は今でも恐ろしいです。しかし、いずれの絶望であっても、それに浸って底まで行った際には必ず突き抜けて、その先には溢れんばかりの希望、言い換えれば生命力の爆発のようなものがあることがわかってきました。
「生命体の生涯は短い」という普遍的な嘆きでさえ、これをどこまでも深く痛感し、染まり切り、どん底に沈み込んだ果てには「だからこそ、私たちが生きるたった1秒間には無限の価値がある」「たった1秒に、終わりなき無限の時間がある」「終わりを有する存在は、さればこそ変幻自在である」という風に爆発的な希望が体感されてくるのであります。
人間は考え抜くと必ず楽になるが、考えるのを途中で躊躇してしまう人間はいつまで経っても宙ぶらりんで苦しみ続ける。これ即ち"悩んでいる"という状態の悲劇である。
昔どこかで読んだ先人の言葉に、このようなものがありました。「内省」の技にも通じてくるのではないでしょうか。
そういうわけで、こんなわけのわからないタイトルの記事を手に取ってしまう物好きな皆様にも人生の全状況打開し得るほどの奥義「内省」をおすすめしておきます。
四
皆様は「ロースト」と呼ばれるAIサービスをご存じでしょうか?
自身のXアカウントの書き込みを統計分析し、それを元にAIが「これでもか!」といわんばかりの毒舌で批判してくれる奇天烈なサービスです。"強火"なのでローストだとか……。
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ご覧の通り、私も物凄い言われようです。
これを見た瞬間怒りが湧きもしたのですが、そういえば昔遊んでいたネットゲームでは日常的にこういった文言が飛び交っていたことを思い出し、「この感じ、なんだか懐かしいな……」という気持ちも湧いてきました。
現代社会では何かにつけてオブラートに包んだというか、もはやオブラートの海の底まで沈めた表現が強いられ、物事の批判など処罰対象と言わんばかりの風潮がありますが、わざわざこんな嫌な言われ方をするコンテンツが流行る現象にこそ、人々の集合意識の本音が表れている気がしてなりません。
つまり、人々は「包み隠さぬ批判」に飢えているのではないかと。
それからこのローストの内容は、私の発信を見てくださっている人ほど笑えるものにもなっている気もするので、ここでも晒しておきます(笑)
伍
社会人でもない癖にやたらと生真面目な性格なので、今後noteやTwitter(X)が何の断りもなく停止していた場合、おそらく私「ホロ9」が肉体的な死を迎えたという合図になります。
まだまだこの人体と実在感を伴って世界の変化を観察したい思いが強く、死ぬつもりなど毛頭ないのですが、生物にとって肉体の死は不可避、かつうっかり偶然訪れてしまうことがあります。たとえ世界に注目される超天才、大物政治家、凄腕社長であってとしても、人はちょっとした偶然で簡単に死んでしまう。そんな事例を数多く知ってきたものです。
「寿の大爆発とでもいうべき現象が起きて、見渡す限りの地上が豊穣と混沌に覆いつくされるのを見たい」
ただ、私にはそんな漠然とした目標があります。一見して荒唐無稽極まりない内容なのですが、様々な偉人、先人、或いは身近な先輩らの思想に触れる内に確かに私の心の内に生じた想念です。私たちが生きているこの世界は本来もっと幸福なのであり、喜怒哀楽の変化も含めて喜ばれる場所であり、全ての魂が祝われるべき空間であった筈が、今は何らかの不自然な抑圧、誤解によってそれが丸ごと喪失されてしまっている。どうにもそんな気がしてならないのです。
そういうわけでホロ9は来るべき「寿の大爆発」へと向けて、生きている間はもちろん、死んだ後にも霊体として活動を続けてゆくつもりなので、何卒よろしくお願いいたします。